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素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。 
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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  
所在地
 福島県郡山市三穂田町鍋山字鳥居戸屋敷の付近(ゼンリンの「いつもガイド」から町名と字名を推定)
歴史、人物、伝承

全く不詳
 複郭から構成されると見られる堀跡状の地形が、阿武隈川支流笹原川の南岸に1976年頃までは所在していたという事実以外については全く不明であり、「まほろん」(福島県文化財データベース)、「埋蔵文化財包蔵地マップ」(郡山市役所公式HPから)を始めとして、「日本城郭大系」、「福島の中世城館跡」などの基本資料にも掲載されていないことだけは確認できているが不明な部分が多い。古い航空写真のみという限られた情報から想定できることは極めて少ないが、その立地条件からは水利の占有といった意思も感じられなくもないことから、その初期には安積伊東氏一族などの在地系の領主による築造の可能性も想定されるのではないだろうか。

(注) 地表からすでに消滅しているこの遺構名称については、当管理人の一存により暫定的に記したものであり、学術的根拠等は全く存在しないものであることを明記すると同時に、その後「発掘調査報告書」などにおいて関連する記述などが確認された場合には速やかに訂正することとしたい。

確認可能な遺構
 なし(終戦後に在日米軍が撮影した航空写真、1976年頃までの航空写真に堀跡状地形あり)
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2015年10月19日 午前10時50分から11時00分頃まで 
訪城の記録 記念撮影


 根拠は航空写真のみ
 この地を訪れた時には南側の鳥居戸屋敷(郡山市三穂田町鍋山字向屋敷の北西に近接している)と思われる旧家の方に目が行きましたが、遺構所在地、名称などが現地と一致しないなどの疑問が生じ、やがてこの辺りの耕地は道路も含めて耕地整理によってかなり大きく改変されていることを知りました。
 そうなると先ずは「国土地理院の航空写真」や「明治期の迅速図」などが気にかかり始め、しばらくいろいろ調べているうちに下記の航空写真のなかに堀跡のようにも見える地形を確認するに至りました。
 国土地理院が公開しているいくつかの航空写真を閲覧した限りでは、西側の郭が東西、南北ともに100m位の方形で、その東側に隣接している郭は東西70m、南北100mほどの方形となっていることが窺われます。
 あくまでも平面的で二次的な情報に過ぎない航空写真が唯一の手がかりなのではありますが、やはり耕地整理以前の単なる水田と考えるのは不自然なように思え、時代背景なども全く分かりませんが、ついつい習性で余りにも見事な複郭の城館跡を形成しているように見えてしまうのでありました。
 明治期の絵図、旧公図や旧土地台帳などを調べていけば、もう少し明確になる可能性がありますが、残念ながら調べる気力と時間がありません。
 近年は以前とは異なり国土地理院関係の資料も見やすくなってきたことから、すでに同様の探索をされている方も少なくないと考えられますので、よろしくご指摘、ご助言などをいただければ幸いです。

( 2016/11/05 記述)

鳥居戸屋敷北の遺構 ⇒ 画像クリックで拡大します
鳥居戸屋敷北の遺構
画像左側の方が「遺構」の推定地で、右側の林は普賢寺の境内です。
( 2015/10/19 撮影 )
訪城アルバム
耕地整理の記念碑 ⇒ 画像クリックで拡大します
在日米軍撮影の航空写真 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 耕地整理の記念碑
 何気なく偶々撮影していた画像が役に立ったようで、この記念碑の向かって右奥辺りにかつては西側の郭が存在していたものと想定されます。
 この碑文によれば1975年9月から県営の圃場整備事業が開始されたことが刻まれており、石碑の所在は国土地理院ウェブ地図にも記されています。
凸2 在日米軍撮影の航空写真
 国土地理院航空写真を引用加工させていただいたもので、
1948年3月26日撮影されたもので高度は2438mです。
 整理番号等はUSA−R1172−13です。
 方形で黒く見える部分が堀跡の名残であると仮定すれば堀幅はおよそ15m前後くらいの規模になるものと思われました。

1975年撮影の航空写真 ⇒ 画像クリックで拡大します
1975年撮影のカラー航空写真 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 1975年撮影の航空写真(国土地理院航空写真)
 米軍撮影の航空写真と同じような範囲に加工したつもりでしたが、不器用なので少しずれています。
 1975年5月13日撮影で高度は2000m、整理番号等はT0757−C18−19です。
凸4 1975年撮影カラー航空写真(国土地理院航空写真)
 1975年11月12日撮影のカラー版で、撮影高度は1600mで、整理番号等はCT07531−C16B−1です。
 方形複郭地形の少し北側に堀跡のようにも見えなくもない屈曲した地形も確認できます。

1992年撮影の航空写真 ⇒ 画像クリックで拡大します
2014年撮影の航空写真 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 1992年撮影の航空写真(国土地理院航空写真)
 1976年撮影の航空写真にも方形地形は確認できますが、画像の解像度があまり芳しくなく、画像1の碑文の文言とあわせて、おそらく方形地形は1976年から1980年頃の間には圃場整備事業の進捗により消失したものと推定されます。 なお、その後の撮影はこの1992年の画像となっていました。
凸6 2014年撮影の航空写真(国土地理院航空写真)
 2016年11月4日現在で公開されている最新版です。
 「画像4」までのものに比べると河川流路も変わり、公道の位置も付け替えられているため、集落の位置などを比較しつつ方形地形の位置を推定してみました。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図
凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
・「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林) 記載なし
・「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社) 記載なし
・「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社) 記載なし

歴史・郷土史関係等
・「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院) 記載なし
・「郡山の城館−歴春ブックレット安積2」(2015/垣内和孝 著/歴史春秋社)
 ⇒ 地方紙である福島民友に2013年から2014年にかけて連載されていた記事を基に編集されたもので、安積地域に所在している約40か所の城館跡について略述しているが、この城館に関する記述は収録されていない。
・「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店) 記載なし
・「郡山の歴史」(旧版 2004/郡山市) 記載なし
・「郡山の歴史」(新版 2014/郡山市) 記載なし
・「郡山市史第1巻通史編」(1975/郡山市編) 記載なし

史料、地誌
「積達古館弁巻ノ五安積郡」(「郡山市史8資料編」より) 記載なし
・「郡山市史第8巻資料編」(1973/郡山市編)  記載なし

その他(データベース、関係著書)
・福島県文化財データベース「まほろん」 記載なし
・郡山市役所公式HPから「埋蔵文化財包蔵地マップ」 記載なし
・「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院) 記載なし
 ⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している。
 このほか伊東氏をめぐるその系譜と伊東氏の主たる領地である安積三郷(五百川以南で藤田川以北の上郷、藤田川以南逢瀬川以北の中郷、逢瀬川以南笹原川以北の下郷) の同氏の支配関係を考察する論考も掲載されている。

・2016/11/05 HPアップ
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