福島県内の市町村別城館跡の目次へ
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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2015/10/20のブログ
所在地
 福島県郡山市逢瀬町河内(こうず)字金山、轟
歴史、人物、伝承

伝・安藤権太夫居館とも
 葉山の北西約2kmに所在し、「日本城郭大系」によれば、安藤権太夫の居館と伝わり、「中世城館調査報告書」でも土塁、空堀、堀などの遺構が残る旨が記載されている。
 しかしその歴史的経緯については明確な史料が見当たらず、後世の地誌などに記された僅かな伝承などの記述が知られるのみであり、「積達古館弁」によれば富田村の項に「ととろき館 右同断(右に同じ)、」とあり、右記を辿ると「里老伝に城主不分明と云々、今の名主らしき也、」との記述が見られるだけでその詳細は不明である。
 なお「轟館(とどろきだて)」の呼称は、その所在している字名である「轟」から付けられたものと考えられ、一般には「河川の水音の高い場所を指すとされている」(「日本地名辞典」(1991/新人物往来社))ように北方約300mの地点には阿武隈川支流である逢瀬川が大きく蛇行し東流している。

確認可能な遺構
 「城郭体系」「まほろん」には土塁空堀があるとの記載があるが未確認
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2015年10月20日 11時05分から11時20分
訪城の記録 記念撮影


 鬱蒼とした木立
  城跡は標高約315m、東西約400メートル、南北約200メートルほどのL字形をした独立丘陵に所在しています。比較的傾斜のゆるいと思われた北辺部分と北西の細長い稜線部分を中心に尾根筋への登り口をうろうろしてみましたが、鬱蒼とした雑木と草薮に覆われて踏み跡も見つからず、かつ麓からは稜線のラインがほとんど目視できないないことなどが判明したため踏査を断念せざるを得ませんでした。ほかに考えられるルートとしては北東に延びる稜線からアプローチするという方法ですが、東麓の民家近くを通過することが予想されましたので、事前の承諾を得る必要もあると考えられたことと時間の関係などもあり諦めました。
 せめて神社のような小祠などが祀られている場合には、それなりの古道もあったりする場合も少なくないのですが、こちらの場合にはそうした存在も見られませんでしたので、この日は先を急ぐ事情もあり撮影した画像は遠景だけになりました。
 麓からの比高は40メートル弱ほどなのですが、北側の逢瀬川方面の見通しは視界を遮るものがなく、すこぶる良好であることが窺えました。
 地理的には東麓に所在する旧家との関連が想定されましたが、その当時の集落配置とは異なる可能性があるとはいえ、周辺の蔵田、原、平内などの集落からは幾分離れていることから、むしろ戦国期の陣城や物見のような役割を果たしていたと考える方が納得がいくような気もしました。
 城館関連地名としては隣接する北東部に「原前舘」という字名も残されていますがその関連は不明です。

( 2016/07/22 記述)
轟館 ⇒ 画像クリックで拡大します
東側からの遠景
( 2015/10/20 撮影 )
訪城アルバム
轟館 ⇒ 画像クリックで拡大します
轟館 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 北側麓
 丘陵からの湧水も含まれると思われるこの用水路の近くから南方に登る道があったらしいのですが、10mも進まないうちに樹木に進路を阻まれました。
 
凸2 北側の遠景
 初冬の時期ならいざ知らず、すくなくとも10月中旬の季節ではこの藪をすすむことは躊躇われました。

北側の水田 ⇒ 画像クリックで拡大します
北側の水田 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 北側の水田
 郷愁を誘う収穫後の見事な田園風景です。
凸4 北側の水田
 ふと浮かんだ城攻めのシーン(笑)
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図
凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林)
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)

郷土史関係等
「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)
「郡山の歴史」(旧版 2004/郡山市) 
 応永11年(1404)の安積伊東氏一揆連判状では、この地に関連している人物として伊東氏の通字との関連が窺える「河内藤兵衛祐春」( ⇒ 「松藩捜古所収文書」、「有造館本結城古文書写」では「河内藤原祐春」と記載)の名が見られるがその詳細は不明。
「郡山の歴史」(新版 2014/郡山市)
 近年における発掘調査の成果などを含むが、旧版で収録されていた中世の政治動向などが割愛されている部分もある。
「郡山市史第8巻資料編」(1973/郡山市)
 ⇒第3編中世史料297 天正年間の初めと推定されている「蘆名盛氏止々斎書状」(伊佐早謙所蔵文書)には、蘆名隆盛が安積郡河内城(こうずじょう)を攻めて二本松の畠山義継側の勢力を追い払い河内城を破却したことが記されている。この河内城と轟館は無論別の城館と考えられるが、こうした安積地方を巡る蘆名氏と田村氏、伊達氏などとの抗争の過程で取り立てられた可能性も想定される記述なのかも知れない。

史料
「積達古館弁巻ノ五安積郡」(「郡山市史8資料編」より)
 ⇒ 近世に編纂された地誌に僅かに上記の伝承が記されている。
「文禄3年(1594)蒲生領高目録」(「郡山市史8資料編」より)

その他
福島県文化財データベース「まほろん」
「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院)
 ⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している。
 このほか伊東氏をめぐるその系譜と伊東氏の主たる領地である安積三郷(五百川以南で藤田川以北の上郷、藤田川以南逢瀬川以北の中郷、逢瀬川以南笹原川以北の下郷) の同氏の支配関係を考察する論考も掲載されている。


・2016/07/22 HPアップ
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