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2015/10/20のブログ | |
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福島県郡山市逢瀬町河内(こうず)字金山、轟 |
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「城郭体系」「まほろん」には土塁、空堀があるとの記載があるが未確認 |
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なし |
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2015年10月20日 11時05分から11時20分 |
( 2015/10/20 撮影 ) |
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凸参考・引用資料
(太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの) ■城郭関係
「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林) 「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社) ■郷土史関係等 「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店) 「郡山の歴史」(旧版 2004/郡山市) 応永11年(1404)の安積伊東氏一揆連判状では、この地に関連している人物として伊東氏の通字との関連が窺える「河内藤兵衛祐春」( ⇒ 「松藩捜古所収文書」、「有造館本結城古文書写」では「河内藤原祐春」と記載)の名が見られるがその詳細は不明。 「郡山の歴史」(新版 2014/郡山市) 近年における発掘調査の成果などを含むが、旧版で収録されていた中世の政治動向などが割愛されている部分もある。 「郡山市史第8巻資料編」(1973/郡山市) ⇒第3編中世史料297 天正年間の初めと推定されている「蘆名盛氏止々斎書状」(伊佐早謙所蔵文書)には、蘆名隆盛が安積郡河内城(こうずじょう)を攻めて二本松の畠山義継側の勢力を追い払い河内城を破却したことが記されている。この河内城と轟館は無論別の城館と考えられるが、こうした安積地方を巡る蘆名氏と田村氏、伊達氏などとの抗争の過程で取り立てられた可能性も想定される記述なのかも知れない。 ■史料 「積達古館弁巻ノ五安積郡」(「郡山市史8資料編」より) ⇒ 近世に編纂された地誌に僅かに上記の伝承が記されている。 「文禄3年(1594)蒲生領高目録」(「郡山市史8資料編」より) ■その他 福島県文化財データベース「まほろん」 「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院) ⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している。 このほか伊東氏をめぐるその系譜と伊東氏の主たる領地である安積三郷(五百川以南で藤田川以北の上郷、藤田川以南逢瀬川以北の中郷、逢瀬川以南笹原川以北の下郷) の同氏の支配関係を考察する論考も掲載されている。 ・2016/07/22 HPアップ
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