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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2015/07/29のブログ 
所在地
 福島県郡山市冨久山町八山田字鹿島館
歴史、人物、伝承

経緯不詳
 この城館名については、「まほろん」(福島県文化財データベース)「埋蔵文化財包蔵地マップ」(郡山市)によれば鹿島館と記しているが、同名の城館名が少なくないことから便宜上旧村名である八山田の字句を付加した。
 この城館について、「日本城郭大系」(3巻)巻末のその他の城館一覧(福島県)によれば、「谷津治郎の居館」との記述が見られる。しかし、「積達古館弁」の八山田村八山田館の条によると、「里老伝に城主谷津治郎允(やつじろうのじょう)」との記述があり、もしも仮にこの二人が同一人物であるとするならば、「城郭大系」編纂時の誤記の可能性を考える必要があるのかも知れない。
 小さな谷津を挟んだ西方僅か150mほどの地点には、谷津氏を館主とするとも伝わる八山田館(山崎館とも、異説あり)が所在しているという。

確認可能な遺構
 腰郭土塁ほか(いずれも推定)
このほかに鹿島神社の由来記した案内板に谷津の館主として、藤原祐之(安積伊東氏一族か)の名が記されている。
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2015年7月29日 
訪城の記録 記念撮影


 遺構のある経緯不詳の城館
 正直なところ移動途中の数稼ぎのような感じで、あまり期待しないで立ち寄ったのですが、丘陵東側の鹿島神社側には土塁跡、複数の腰廓、城道などと思しき形跡が確認でき望外の収穫となりました。むろんその全てが中世城館に関係するものであるのかは分かりかねますが、少なくとも郡山市内の城館伝承地では、立地条件が「丘陵+神社」の場合には何らかの城館遺構らしきものを目の当たりにするという事例が少なくはありませんでした。
 郡山市立行健第二小学校南方の半独立丘陵に所在しています。丘陵の東西に谷津田が深く入り込む地形で、丘陵と南側市街地の比高差は最大15メートルほどを測り、南方郡山市街地方面の眺望に優れた環境にありました。 一帯には鹿島舘という字名も現存し、今回の更新にあたり関係資料の整理をしていたところ、谷津を挟んだ西側にはこの八山田の中心的な城館ではなかったのかと推定される八山田が字館前に存在していたことに後から気が付きました。いきおいこの近接した2つの城館の時代背景、相互関係などが気になりますが、その詳細は不明のようです。
 郡山市内には所在地が確認されているだけでも凡そ200か所前後の中世城館跡が存在しています。たまたま昨年の2015年には7月と10月の2度、延べにして5日間ばかり滞在しておりましたが、天候や足回りの体調などの関係で合わせて40か所程しか探訪できませんでした。会津方面や阿武隈山地などの山城関係(クマ出没の可能性あり)も少なくないことから、最早その全てを踏査することは叶いそうにもありません。

( 2016/08/10 記述)
八山田鹿島館の遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
八山田鹿島館の遠景
( 2015/07/29 撮影 )
訪城アルバム
土塁状の地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
土塁状の地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 土塁状の地形
 鹿島神社社殿奥の土塁状の地形で、その時代背景は不明ですが、城館遺構に関連するものであるように思われます。ただし、土塁の向こう側の様子はよく見えませんでした。
凸2 左に同じ
 土塁の向こう側は北西方向に低丘陵が続いていますので、空堀(堀切)との組合せで外敵の侵入を防御していた可能性も想定できます。

腰郭状地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
震災の爪痕を記した石碑 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 腰郭状地形
 画像右側の斜面は鹿島神社境内となっている主郭部分なのかも知れません。
 現状では腰郭からこの切岸を登るルートは余り明確ではありませんでしたが、東側からの城道がこの腰郭を経て主郭に繋がる様子は伝わってきました。
凸4 震災の爪痕を記した石碑
 事実を記録し後世に伝え、二度とその惨禍に見舞われぬよう社会に警鐘を鳴らし続けることの大切さを痛感します。
 いまだ「丘陵振動」に伴う大地震災害の跡が、そこかしこに散見されました。

鹿島神社の由来 ⇒ 画像クリックで拡大します
 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 鹿島神社の由来
 応永年間に谷津の館主であった藤原祐之( ⇒ 藤原姓とその通字から推測するに安積伊東氏の傍流か)の勧請分祀と伝わるとのことです。
 この藤原祐之について手持ちの安積伊東氏関係の資料をひととおりざっと当たりましたが、該当する人物は見当たりませんでした。
凸6 ふくしま緑の百景
 画像中央の大きな石碑は八山田地区の新田開拓に関連した戦前の記念碑です。

鹿島神社 ⇒ 画像クリックで拝殿の画像へリンクします
地元の八山田集会所
凸7 旧村社鹿島神社
 八山田村の鎮守で、旧村社の鹿島神社。この表参道は後世に整備されたものと思われ、東側には麓からの古道の踏み跡が残されておりました。
凸8 八山田(やつやまだ)町内会館
 使用されている建材とその経年変化などから想定いたしますと、少なくとも半世紀くらいは経過していそうな郷愁を漂わせていました。階高の低い木造トタン葺は直下型でない限り、案外強そうです。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図
凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
・「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林) ⇒ 記載なし。
・「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社) ⇒ 「八津治郎の居館」とのみ記載。

郷土史関係等
・「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院) ⇒ 記載なし
・「郡山の城館−歴春ブックレット安積2」(2015/垣内和孝 著/歴史春秋社) ⇒ 記載なし
 ⇒ 地方紙である福島民友に2013年から2014年にかけて連載されていた記事を基に編集されたもので、安積地域に所在している40か所の城館跡について略述している。
「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)
 ⇒字八津として 「八山田には谷津民部允の居館谷津館あり」(江戸末期に編纂された安積郡村々大概記)との記述があるという。
「郡山の歴史」(旧版 2004/郡山市) 
 応永11年(1404)の安積伊東氏一揆連判状では、この地に関連している人物として伊東氏の一族とされる多くの人物が連署しているが、このなかに八山田を本願とした領主の名は上記の藤原(伊東氏)祐之、谷津氏、八山田氏を含め確認できないが、積達古館弁、積達館基考、相生集などから纏めた「安積郡の城館」として「八山田館 城館主 谷津次朗允」の名を記している。
「郡山市史第1巻通史編」(1975/郡山市) ⇒「仙道記」からの引用により、「八山田城主 八山田丹波」との記述がある。

史料
「積達古館弁巻ノ五安積郡」(「郡山市史8資料編」より)
 ⇒ 「八山田村八山田館 里老伝に城主谷津治郎允と云々、あるいはまた曰く、昔このところに谷津掃部といへる盗賊の張本住せしと云々」との記述があり、近世に編纂された地誌に僅かに伝承が記されている。
・「郡山市史第8巻資料編」(1973/郡山市)
 ⇒ 「仙道記」の記述として、「八山田城主 八山田丹波」の記述がある。
・「文禄3年(1594)蒲生領高目録」(「郡山市史8資料編」より)
 ⇒ 「下 八山田 524石3斗3升」の記載があるように1000石に満たないことから、八山田村単独では有力な領主を生み出すような背景がなかったであろうことが窺える。

その他
・福島県文化財データベース「まほろん」 ⇒ 鹿島館の記載あり。
・郡山市役所公式HPから「埋蔵文化財包蔵地マップ」  ⇒ 鹿島館の記載あり。
・「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院)
 ⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している。
 このほか伊東氏をめぐるその系譜と伊東氏の主たる領地である安積三郷(五百川以南で藤田川以北の上郷、藤田川以南逢瀬川以北の中郷、逢瀬川以南笹原川以北の下郷) の同氏の支配関係を考察する論考も掲載されている。


・2016/08/10 HPアップ
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