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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2016/11/14のブログ 
所在地
 福島県郡山市熱海町安子島字町、字南町、字桜畑、字舘前
歴史、人物、伝承

変遷する支配勢力
 安積伊東氏一族である安子島氏(あこがしまし)の居城とされている。城は安積郡の北端で安達郡との境界に所在し、城の北方の五百川沿いに二本松と会津をつなぐ会津街道(越後街道)があり、その城下では長沼、白河に向かう街道も分岐するなどの軍事・交通の要衝に立地していた。( ⇒ 「本宮町史第4巻」)
 有名な応永11年7月(1404)の「仙道諸家一揆傘連判状」に安積伊東氏一族の名が記されてるなかで、「安子嶋藤原輔清(祐善とも)」の名が確認できるのが安子島氏の初見とされている。
 しかし、16世紀に入り田村氏を始めとする周辺の有力な勢力による侵攻を受け、文亀元年(1501)蘆名、二階堂氏により安子島城は落城し、安子島氏は本宮方面へのがれた。その後天文年間になると伊達氏、田村氏の支配下に属し、永禄2年(1559)頃には再び蘆名氏の傘下に入ったが、天正17年(1589、天正14年という説もあり)蘆名氏に帰属していた安子島治部の時、会津攻略を目指した伊達政宗の軍勢を前に籠城したものの衆寡敵せず落城し会津方面へと逃れたとされている。
 翌年、豊臣秀吉奥州平定により蒲生氏郷が会津に入封した際には、安子島城は支城として蒲生源左衛門郷成(がもう げんざえもん さとなり)が入り、慶長3年(1598)からは蒲生氏に代わり上杉景勝が入封して、安田能元が城代となり「浅香城」とも呼称され( ⇒ 新版「郡山の歴史」(2014))、慶長5年(1600)関ヶ原合戦の際には、景勝の重臣である直江兼続が入城したともいわれている。
 その規模は東西約600m以上、南北約200m以上の範囲に及び、大きくは本丸を中心とした西館と広大な東館に分かれ、西館はさらに本丸、西郭、南郭に分かれていた。( ⇒ 「本宮町史第4巻」)また、東館については、あくまでも戦後間もない航空写真からの想定に過ぎないが、3か所から4か所の郭から構成されていたことが窺える。
 廃城の時期は上杉家入部時など諸説があるが、遅くとも17世紀の初めと考えられ、表記では安子ヶ島城、安子島館などともいい、別名を亀井館とも呼称されることがある。

確認可能な遺構
 堀跡、崖線部切岸、城址碑あり(一部発掘調査済)
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2016年11月14日 午前8時00分から9時00分
訪城の記録 記念撮影


 圃場整備で消滅?
 なるべく周辺部を歩きながら、なおかつ安全な駐車スペースを確保するために、磐越西線の踏切手前の通行の少ないと思われた個所に駐車して、城跡には徒歩にてアプローチしてみました。西側にあるはずの城跡を目指したつもりでしたが、結果的には少々離れすぎた場所に止めてしまい、結局のところ往復2km以上余計に歩いてしまいました。 全体として交通量もそう多くはなく、かつ耕地の間の道も狭くはないのですが、できるだけ路駐を避けた結果でした。朝晩の通勤・通学時を除くと安子島駅前も可能かもしれませんが、お参りをすることを前提とするならば、安子島集落内の大鏑神社駐車場、あるいは慈恩寺付近が相応しいように思われました。
圃場整備により、往時の遺構の大半は消失していますが、それでも安子島小学校が所在する台地南部に切岸の名残を感じ、本丸跡南側に設置されている城址碑の東側約80m付近には現在でも当時の堀跡の一部を確認することができます。 このほか丘陵北部の比高差8mほどの崖線部分に城跡の名残をとどめています。
 在来の領主である安子島氏の独力で構築された城というよりも、より有力な蘆名氏、田村氏、伊達氏などの戦国大名クラスの勢力により整備拡張されていったと見るのが相応しい規模を有しています。

( 2017/01/20 記述)

安子島城石碑 ⇒ 画像クリックで拡大します
本丸跡南側の安子島城石碑
( 2016/11/14 撮影 )
訪城アルバム
城跡の東部 ⇒ 画像クリックで拡大します
安子島駅 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 城跡の東部
 城跡の東部には、「画像12」の航空写真が示しているように、かつては東館(東郭)とも呼ばれている広大な郭が所在していたようなのですが、圃場の整備や道路建設などにより大きく地形が変貌していますので城跡の境が把握しづらくなっていました。
凸2 安子島駅
 JR磐越西線の安子島駅北口です。城跡西館の南郭はこの磐越西線の南側(線路の反対側)に所在していたものと推定されていますが、その線路と国道49号線に挟まれた一帯から、かつての城跡の形跡を求めることは極めて難しくなっていました。

西館と東館の間の堀跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
城址碑の碑文 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 西館と東館の間の堀跡
 発掘調査時の航空写真、略測図(本宮町史第4巻)などから推定しますと、この画像の個所が当該堀跡に相当するはずです。
また、画像の中ほどの右側辺りには小口の存在も推定されているようですが、周囲の宅地化などにより判断しづらくなっていました。
凸4 城址碑の碑文
 圃場整備完成記念に伴う城址石碑で、天正17年(1589)における安子島治部大輔祐高が伊達勢の侵攻を支えきれず蘆名氏をたより猪苗代方面へと撤退した経緯などが記されています。なお、この経緯については「積達古館弁」の安子嶋村安子嶋舘の項を引用しているものと考えられます。

西館南西付近から ⇒ 画像クリックで拡大します
西館の西郭境界付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 西館南西付近から
 西館の西郭南西部辺りから東側の安子島小学校方面を撮影したものです。連なった林のように見える辺りは、たぶん東館との境付近に相当するはずです。
凸6 西館の西郭境界付近
 恐らくは画像の右端辺りが西郭の西側部分辺りではないかと思いますが、圃場整備に伴い目安となる堀跡が消失しているためにあくまでも想定です。

東館の西側崖線付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
西館と東館を分かつ堀跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 東館の西側崖線付近
 この崖線は画像右側の辺りで大きく西側(画像の手前側)に張出し「画像8」の個所へとつながっています。
凸8 西館と東館を分かつ堀跡
 耕作と宅地化などにより変貌を遂げてはいますが、かつての堀の存在を今に伝える貴重な景観です。

安子島小学校西門付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
安子島小学校北西付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸9 安子島小学校西門付近
 郡山市立安子島小学校西側の切通し状の地形です。この南北方向の道路により西側の字舘前と東側の字桜畑とに分かれているようで、広い東館についても、往時はこの辺りで分かれていたのかも知れません。
凸10 安子島小学校北西付近
 往時からの地形か、戦後の切通し工事に伴うものか、はたまた宅地造成に伴うものか悩みます。

安子島小学校北側付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
国土地理院航空写真から ⇒ 画像クリックで拡大します
凸11 安子島小学校北側付近
 北側集落との境に所在している段丘の崖線部で、場所により低い個所も見受けられますが、高いところでは比高10m前後で概ね約8mほどの比高差を有しております。
 こうした崖線は城跡の北辺部で明確に確認ができ、東西の館を分かつ堀跡の存在に匹敵する遺構のひとつともいえそうです。
凸12 国土地理院航空写真
 国土地理院航空写真USA-R1208-57から安子島城の遺構(「本宮町史第4巻」を参考にして推定)を重ねて加工してみたものです。
 この航空写真を見た限りでは、東館(東郭)は堀跡により少なくとも3か所から4か所の部分に分かれていた可能性も想定されます。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図
凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
・「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林) ⇒ 掲載あり
・「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社) ⇒ 掲載あり
・「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)掲載なし

歴史・郷土史関係等
・「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院) ⇒ 掲載あり
・「郡山の城館−歴春ブックレット安積2」(2015/垣内和孝 著/歴史春秋社) ⇒ 掲載あり
 ⇒ 地方紙である福島民友に2013年から2014年にかけて連載されていた記事を基に編集されたもので、安積地域に所在している約40か所の城館跡について略述し、この安子島城についても略述されている。
・「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)
・「本宮町史第4巻考古・古代・中世資料編1」(1999) ⇒ 掲載あり
 ⇒ 当城の歴史的経緯、発掘調査の成果、などについて分かりやすく纏められ略測図も掲載されている。
・「郡山の歴史」(旧版 2004/郡山市) ⇒ 掲載あり
 応永11年(1404)の安積伊東氏一揆連判状では、この地に関連している人物として伊東氏の一族とされる「藤原祐善」の名が見られる。
・「郡山の歴史」(新版 2014/郡山市) ⇒ 掲載あり(54頁 上杉支城の浅香城に比定している、39頁 航空写真掲載)
 近年における発掘調査の成果などを含むが、旧版で収録されていた中世の政治動向などが割愛されている部分もある。
・「郡山市史第1巻通史編」(1975/郡山市編)

史料、地誌
「積達古館弁巻ノ五安積郡」(「郡山市史8資料編」より)
 「館 里老伝に云々」との記述があり、近世に編纂された地誌に僅かに伝承が記されている。
・「文禄3年(1594)蒲生領高目録」(「郡山市史8資料編」より)
・「郡山市史第8巻資料編」(1973/郡山市編)

その他(データベース、関係著書)
・福島県文化財データベース「まほろん」 ⇒ 掲載あり
・郡山市役所公式HPから「埋蔵文化財包蔵地マップ」 ⇒ 掲載あり
・「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院)直接の言及なし
 ⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している。
 このほか伊東氏をめぐるその系譜と伊東氏の主たる領地である安積三郷(五百川以南で藤田川以北の上郷、藤田川以南逢瀬川以北の中郷、逢瀬川以南笹原川以北の下郷) の同氏の支配関係を考察する論考も掲載されている。田村氏に関しては「田村家臣録」「田母神氏旧記」に関連して、田村氏の家臣団とその関連する城館についての考察がある。


・2017/01/20 HPアップ
・2019/03/04 chrome対応のためタグ等修正
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