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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2007/12/24のブログ 
所在地
 群馬県藤岡市浄法寺(旧鬼石町)
歴史、人物、伝承

浄法寺城砦群の拠点との見解も
 山崎一氏は浄法寺城については、山城としての三ツ山城、金鑚御嶽城を防御ラインとした地域城という見解を示しています。これによりますと古くは浄法寺氏(浄法寺左近大夫)、後に平沢氏(長井氏)、西上州地域に武田氏の支配が及んでいたころには信濃佐久を本願地とする依田氏がその支配に関わったと推定されるのが通説のようです。(「日本城郭体系 4」より)
 しかし、浄法寺氏の事跡については南北朝期に高山・小林一族ととも足利方に加わったとされているほか、のちに戦国期の「安保文書」に断片的に登場しているもののかなり不明な部分が多いものと思われます。また武田氏・後北条氏勢力の間隙を縫うようにして登場し神流川右岸一帯を中心としてその支配下に収めていた平沢氏についても、何通かの所領安堵状が残されているほかは、長井斉藤氏の系譜であることを示す系図が存在するというものの他にその出自を示す明確な史料は見当たらないとされています。
 さらに、依田氏(はじめ芦田氏、のちに松平姓を賜る)についても関ヶ原の合戦以前に早々と歴史の表舞台から姿を消し去っていることもあり、芦田川屋敷の伝承と関東入府にあたり徳川家より藤岡城主として3万石を拝領したという以外にはこの地域との関わりを如実に示す史料が十分に残されているとは言えないものと考えられます。

確認可能な遺構
 土塁?堀?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2007年12月24日
訪城の記録 記念撮影

( 2007/12/24 )
 天台寺院の境内
 天台寺院に相応しい山門付近の石塁と境内の基壇がなかなかに印象的で、境内側からよく見れば県道沿いの東側には土塁跡のような盛り土の痕跡が確認できます。しかしこの地形がそのまま確実に土塁遺構であるかどうかについては何とも判断致しかねるのでありました。なおこのちようど反対側に相当する西側台地部分の土塁。堀切などの遺構状況については道路の建設、宅地化の進行と相俟って、台地を削平して境内地を拡張したような様子が窺え当時の地形についてのイメージが湧きません。
 山崎一氏の見解のように神流川沿いの城郭群の中心となる居館として捉えた場合には、当寺の境内地周辺だけでは些か狭隘であるという印象が拭えません。これととともに、神流川とその支流により西側を除く三方が防御されているとはいうものの、戦国期の居館を兼ねた城郭としては地形上の有利性を十分に備えているとは必ずしも言い切れないものを感じました。

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浄法寺城(風格を感じる天台宗浄法寺境内の基壇)
( 2007/12/24 撮影 )
訪城アルバム
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天台宗浄法寺山門
凸1 金鑚御嶽城
 山崎一氏の見解によれば、浄法寺城を神流川沿いの城郭群の中心となる居館として捉えるという考え方があります。直線にして南東1.5kmの神流川右岸に所在する金鑚御嶽城は、まさにそうした場合には東側からの軍事的攻勢に対して防御拠点として大きなカギを握ることとなるはずです。
金鑚御嶽城東廓先端の物見岩付近
何時も立ち寄る神川町のコンビニから眺めた赤城山麓の虹(おまけ)
凸2 浄法寺山門
 明らかに後世のものとは思われますが、山門両脇の川原石を使用した石積みが県道沿いとは思えない味わいのある雰囲気を醸し出して居ります。
 近年において「北武蔵・西上州の秘史」を上梓された川鍋巌氏によりますと、この浄法寺の地が山内上杉方と後北条氏による「金鑚御嶽城の攻防の舞台」であったという見解を示されています。そうした場合においては、神流川右岸の金鑚御嶽城域の支配関係について様々な新たな疑問が止めどもなく涌いてくるのであります。

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凸3 土塁のようにも
 しいて言えば土塁跡のようにも見えなくもない境内地との高低差が一応県道沿いに確認できます。
 しかし、県道側の拡幅および舗装工事に伴う路盤の嵩上げ工事などにより発生した段差であったりすることも十分に考えられるので非常に困惑するのであります。
凸4 後世の石塁
 山門内の通路脇にに所在する後世ののものと思われる川原石の石積みと、どうしても土塁跡のようにも見えてしまう県道沿いの地面の盛り上がり。寺院の基壇部分も含めて館跡に相応しい風格が漂っていることは確かなのですが、明確な城館遺構として断定するにはいまひとつ決め手を欠くという印象が拭えないのでありました。

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凸5 境内西側の高台
 周辺ではかなり宅地が進んでいる模様で、かつての地形を辿ることが難しく、この台地続きの部分は地形上からは大きな弱点であることはまず間違いのないところ。そうした痕跡を時間をかけて辿ってみましたが、無論確たる成果を得ることは叶いませんでした。
 この高台の左側が浄法寺境内で、一見高台との境に土塁のような地形が残されているようにも思えるのですがこの右側の河岸段丘との位置関係から考えますと縄張り上からはありえないような配置となってしまうのであります。
交通案内

・県道13号線西側、鬼石小学校の北約400メートル

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「戦国期東国の大名と国衆」(黒田 基樹 著/2001岩田書院) 
「藤岡市史 資料編」(1993/藤岡市)
「藤岡市史 通史編−原始・古代・中世」(2000/藤岡市)
「藤岡市の歴史年表」(1996/藤岡市)
「藤岡地方の中世史料」(1988/藤岡市)
「群馬県多野郡誌(1927刊行の復刻本)」(1994/春秋社)
「北武蔵・西上州の秘史」(川鍋 巌 著
「史料で読み解く群馬の歴史」(2007/山川出版社)
「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「群馬県の歴史」(1997/山川出版社)
「上里町史 通史編上巻」(1996/上里町)
「上里町史 資料編」(1992/上里町)

・2008/01/26 HPアップ
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