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群馬県邑楽町の城館索引へ戻る 横田屋敷 横田屋敷のロゴ
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2011年11月22日のブログ
所在地
 群馬県邑楽郡邑楽町藤川字熊野、神明
歴史、人物、伝承

足利持氏家臣の屋敷
 「高島村誌」によれば、「横田屋敷は応永(1394−1428)の頃横田某(通称、実名共に不詳とされている)之に居る、鎌倉管領(鎌倉公方足利持氏を指す)に仕え、正長年中(1428−1429)結城氏朝に応じ(永享年間の誤りか)、上杉憲実(当時の関東管領山内上杉氏)の為に古河(古河城)に亡ぶ」と記されている。この点は「邑楽郡誌」も概ね同様である。
 なお正長年間の記述は誤記乃至は誤伝と考えられており、永享12年(1440)の結城合戦のことを指すものと推定される。
 横田氏は永享の乱で死去した足利持氏の遺児である春王・安王を擁立し結城城に立て籠もった結城氏朝に呼応。旧持氏勢力と共に古河城を拠点として兵を挙げたが、衆寡敵せず討死を遂げたものと考えられている。別名を横田館ともいう。
(「邑楽町誌」などより)

確認可能な遺構
 消滅
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2011年11月22日 14時35分から14時40分
訪城の記録 記念撮影

 「城郭体系」が編纂された時点で既に消滅していたと考えられる館跡で、かつては堀跡と郭状の地形が確認された模様なのですが、現状では宅地開発等で完全に消滅しているような印象でした。南側の水路以外にはこれといって撮影する場所もなく、千原田城の長良神社に続いて、ここでも近くの四祀開神社(ししかいじんじゃ)で記念撮影をしました。
 この時点で時刻は未だ午後3時前とはいえども、大分日が傾き始めてしまい画像の明暗処理が必要となってきました。

( 2011/12/9 記述 )
屋敷跡付近の水路
屋敷跡付近の水路
( 2011年11月22日 撮影 )
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)

■郷土史・歴史
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「中世の邑楽町」(1977/細谷 清吉 著/中世の邑楽町刊行会)
「邑楽町誌上巻」(1983/邑楽町)

■史料
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※所収されている「上毛古城塁址一覧」によれば、「横田屋敷 単郭、横田某、結城氏朝に味方して滅亡」と記されている。

「邑楽郡誌」(1917/群馬県邑楽郡教育会)
 ※高島村の章第10節名勝古蹟に「横田屋敷 大字藤川村字熊野および神明にあり。伝え曰く、横田某この處に居り、鎌倉管領(鎌倉公方足利持氏)に仕え、正長年中(1428−1429)結城氏朝に応じて上杉氏(関東管領山内上杉氏、上杉憲実)のために古河城に亡ぶと。郷人呼んで横田屋敷という。天正年中の検地字名に横田屋敷の名称を存せり。今畑地にして凡そ1町1反歩あり。東は韮川に臨み三面塹濠を存す」と記されている。
■その他
邑楽町公式HP

・2011/12/9 HPアップ
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