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群馬県富岡市の城館索引へ戻る 富岡城 富岡城のロゴ
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2011年12月10日のブログ
所在地
 群馬県富岡市上高尾、別保
歴史、人物、伝承

富岡氏発祥の地とも
 鏑川の支流である高田川北岸の比高差60から70mほどの丘陵地帯に所在し、西方約400メートルの地点には十王山烽火台も所在している。
 県道46号前橋安中富岡線の延長工事により、平成22年度に発掘調査が実施され複数の郭と堀切などから構成される連郭形式の山城であったことが判明した。
 また「日本城郭全集」によれば、永享12年(1440)の結城合戦の際に結城持朝の子である太郎持光が、落城した結城城から逃れて富岡に隠れ富岡主税介と号したという。なお後に富岡氏は延徳元年(1489)邑楽郡の小泉城へと本拠地を転じたとされているが、これらの経緯詳細については諸説があるようで不明な部分も多い。

確認可能な遺構
主郭、腰郭、堀切、切岸(道路建設に伴い遺構の約4割近くが消滅したと推定される) 
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2011年12月10日 9時45分から10時30分
訪城の記録 記念撮影

 消滅した西側部分
 道路の新設工事に伴い、昨年発掘調査が実施され、道路工事の方は丘陵を大きくVの字型に切削して路盤整備、法面整備などの真っ最中でした。
 城跡の方は東側の主郭相当部分、堀切状地形、切岸、腰郭状地形などは残存していましたが、全体としてやや遺構としての明確さを欠くという印象が残りました。
 また発掘調査資料などによりますと、今回の道路建設により堀切3条、郭3か所などが消滅したもようです。下記の画像は最も城跡らしい外観を見せていた、主郭東部の切岸と腰郭状の削平地の様子です。
( 2011/12/13 )記述
富岡城
富岡城の切岸と腰郭 
( 2011年12月10日 撮影 )
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

■郷土史・歴史
「富岡市史 自然編、原始・古代中世編」(1987/富岡市)
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「埋文群馬52号」(2010/群馬県埋蔵文化財調査事業団)

■史料
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収

・2011年12月13日 HPアップ
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