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群馬県邑楽町の城館索引へ戻る 千原田城 千原田城のロゴ
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2011年11月22日のブログ
所在地
 群馬県邑楽郡邑楽町中野千原田
歴史、人物、伝承

千原田氏の居館
 「中世の邑楽町」の「落合文書」によれば、佐貫一族の小六郎が千原田に塁を構え在名を称し千原田氏を名乗ったという。千原田氏は南北朝時代の初期に足利方に帰属し、建武3年(1336)4月の板鼻合戦、同年11月の栗崎合戦にも加わったとされている。
 その後2百年ほどのちの享禄2年(1529)に赤岩(赤井)安房守の家臣である宝田和泉守が千原田の塁を改修し居城としたが、後の永禄年間の赤井氏の衰退により小泉城主富岡氏に帰属して中野城へと転じたとされている。
 さらにその後この古塁に南朝の忠臣児島高徳の子孫と伝わる小島氏が移り住み現在に至っているらしい。(「小島氏系図」)
 なお「邑楽町誌」「中世の邑楽町」などの邑楽町の関係資料によれば、別名を千原田古塁ともいうようである。

確認可能な遺構
 堀跡?(未確認)
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2011年11月22日 13時20分から13時35分
訪城の記録 記念撮影

 近年の河川改修事業により、南側の堀跡遺構についてはほぼ消滅している模様です。またこの時点では資料不足により、これといって踏査できそうなところもありませんでした。強いて挙げれば河川北側の屋敷林内付近なのかとも推定されますが、明らかに宅地内であることに加えて足元の不安定さと視界の見通しに難点がありました。止むを得ず付近の長良神社で参拝の上社殿を撮影し、ついでに、「千原田橋」と刻まれたネームプレートなども撮影して撤退をいたしました。
 こののち同日夕刻には邑楽町の図書館に立寄り、関係資料を閲覧の上必要個所を複写しました。これらの関係資料によれば、河川北側の低台地付近に堀跡が残存している可能性もありそうに思われます。
 ただし公式な調査が行われた年次は1974年(細谷氏による調査)、1980年頃(邑楽町誌編纂時)、1985年(県教育委員会の悉皆調査) の3度のようなのですが、一番新しいものでも既に四半世紀以前のものとなっていますので最新の状況は不明である模様です。
 このため実際にどの程度残存しているかは不明ですが、あくまでもGoogleの航空写真などを確認した限りでは、地元旧家の屋敷林北方に何らかの状態で所在している可能性がありそうな印象がありました。

( 2011/12/6 記述 )
矢場川の支流である藤川
矢場川の支流藤川
( 2011年11月22日 撮影 )
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)

■郷土史・歴史
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「中世の邑楽町」(1977/細谷 清吉 著/中世の邑楽町刊行会)
「邑楽町誌上巻」(1983/邑楽町)

■史料
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収

■その他
邑楽町公式HP

・2011/12/6 HPアップ
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