凸千原田氏の居館 「中世の邑楽町」の「落合文書」によれば、佐貫一族の小六郎が千原田に塁を構え在名を称し千原田氏を名乗ったという。千原田氏は南北朝時代の初期に足利方に帰属し、建武3年(1336)4月の板鼻合戦、同年11月の栗崎合戦にも加わったとされている。 その後2百年ほどのちの享禄2年(1529)に赤岩(赤井)安房守の家臣である宝田和泉守が千原田の塁を改修し居城としたが、後の永禄年間の赤井氏の衰退により小泉城主富岡氏に帰属して中野城へと転じたとされている。 さらにその後この古塁に南朝の忠臣児島高徳の子孫と伝わる小島氏が移り住み現在に至っているらしい。(「小島氏系図」) なお「邑楽町誌」「中世の邑楽町」などの邑楽町の関係資料によれば、別名を千原田古塁ともいうようである。
近年の河川改修事業により、南側の堀跡遺構についてはほぼ消滅している模様です。またこの時点では資料不足により、これといって踏査できそうなところもありませんでした。強いて挙げれば河川北側の屋敷林内付近なのかとも推定されますが、明らかに宅地内であることに加えて足元の不安定さと視界の見通しに難点がありました。止むを得ず付近の長良神社で参拝の上社殿を撮影し、ついでに、「千原田橋」と刻まれたネームプレートなども撮影して撤退をいたしました。 こののち同日夕刻には邑楽町の図書館に立寄り、関係資料を閲覧の上必要個所を複写しました。これらの関係資料によれば、河川北側の低台地付近に堀跡が残存している可能性もありそうに思われます。 ただし公式な調査が行われた年次は1974年(細谷氏による調査)、1980年頃(邑楽町誌編纂時)、1985年(県教育委員会の悉皆調査) の3度のようなのですが、一番新しいものでも既に四半世紀以前のものとなっていますので最新の状況は不明である模様です。 このため実際にどの程度残存しているかは不明ですが、あくまでもGoogleの航空写真などを確認した限りでは、地元旧家の屋敷林北方に何らかの状態で所在している可能性がありそうな印象がありました。
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