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群馬県高崎市の城館索引へ戻る 寺尾茶臼山城主郭 寺尾茶臼山城のバナー 寺尾茶臼山城の横堀
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2010/12/30のブログ
所在地
 群馬県高崎市寺尾町字茶臼山
歴史、人物、伝承

山上の単郭方形城館
 鎌倉初期の新田義重居城等とする説もあるが、現存する遺構は概ね単郭方形の形態をとり、南北朝期以降のものと推定されている。戦国期に城郭として利用されていたかについては明確ではないが、山崎一氏の説によれば「永禄期の末年頃に新たに武田氏支配下となった西上州を窺う後北条氏、越後上杉氏に対し箕輪を拠点とする境目城とし烽火台を置いた」との説を提示されている。かつては北麓・中腹などに木戸跡、平場等痕跡も確認できたともいうが、耕地化などにより現状では不明ともいう。
 また後世の地形改変によるものかどうかについては不明だが、東側に所在する雛壇状の平場と主郭を中心とした残存遺構とでは、明らかに防御機能としての落差も感じられる。然しこのことが戦国期の遺構と南北朝期の遺構の相違によるものであるのかについては皆目不明である。
 南側の本来尾根続きであった地形は、1980年代頃に行われた城山団地の大規模な宅地造成事業にともない尾根筋ごとそっくり消失してしまっている。このため根古屋城、山名城方面との地理的な相関関係については些か分かりにくくなっているという印象が無くもない。
 なお城郭名については「高崎市史資料編3」に掲載されているものを使用した。別名を鷹ノ巣城(「日本城郭全集」「日本城郭大系」)、あるいは寺尾古城、茶臼の城(「上州古城塁記」)ともいう。

確認可能な遺構
 主郭、小口、横堀、堀切、土塁、外郭ほか
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2010年12月30日 13時35分頃から14時50分頃
訪城の記録 記念撮影

( 2011/01/07 )
 2010年忘年会
 山城探訪集団「武蔵直登」忘年会を兼ねた訪問でした。堀切、横堀を備えた概ね単郭方形スタイルの比較的コンパクトな山城ですが、何と申しましても城跡南側の城山団地側から上ると比高差約30mと少なく、ここにきて気力・体力の低下が目立つ年代としては誠に有難いことこの上ない立地条件でありました。
 遺構の残存状況も申し分なく、低山によく見られるような藪なども少なく綺麗に整備されて遺構の観察にとっては申し分ありませんでした。また現地には真新しい縄張り図付の詳細な解説板も設置されており、日頃そうした環境とは縁の無さそうな城跡ばかりを訪れている管理人にとっては正に至れり尽くせりといった按配でありました。
 なおこの日は当初神流川沿いの山城などの踏査を予定しておりましたが、年末寒波の到来により降雪の可能性もあり、深い谷筋を避けてより安全な国道254線方面にシフト。2010年の最後を飾るに相応しい城館探訪ともなりました。



寺尾茶臼山城の主郭部 ⇒ 画像クリックで拡大します
寺尾茶臼山城の主郭 −画像A−
( 2010/12/30 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」掲載の情報および「電子国土」の地形図等を参考にしています。

寺尾茶臼山城概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
画像クリックで城山団地の周辺図へ
城跡南端部の堀切 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 城山団地からの登り口
 城山団地北端部からこの画像の比高差約30mばかりの丸太の階段を登りきりますと、間もなくその先に城跡南端の堀切遺構へと続いています。
凸2 城跡南端部の堀切
 堀切の規模は現状の目測によれば、深さは4mから5mほど、幅は約10mほどを測り、斜面の角度も45度に近い部分もあり見事な景観を遺しておりました。

城跡南端部の堀切 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭東側の横堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 同堀切
 西辺の急斜面部分を除いてこの南辺に所在する堀切、東辺、北辺の横堀の幅はそれぞれ約10mから15mほどの規模を有し「上州古城塁記」の記述に概ね合致しているようにも思われます。
凸4 主郭東側の横堀
 主郭東側切岸および坂小口周辺は後年における斜面崩落とも思われる形跡が見受けられます。
 かつては主郭東辺・北辺などにも低土塁状の地形が存在していたのでしょうか。画像中央部は土橋状地形。
 ⇒現地解説板

主郭東側の横堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭北側の横堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 同横堀
 前記の横堀を北側の低地コーナー付近から撮影したもの。経年変化に伴い主郭部切岸および小口付近の土が幾分横堀側に崩落しているような様子も窺えます。
凸6 主郭北側の横堀
 西端手前付近に土橋状地形を確認することができますが、現状の地形から観察する限りでは主郭の小口に続くような性質ものではないようです。

主郭小口部分 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭南側の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 主郭小口部分
 後年の主郭東側切岸部分の斜面崩壊などのために、元来の坂小口の形状にも道幅の拡大などの変化のあったものとも考えられます。
凸8 主郭南側の土塁
 現存する主郭の土塁遺構は西側と南側に限られていますが、「上州古城塁記」によれば恰も四方に土塁が存在していたようにも思われる記述も見られます。
交通案内

・北麓の市街地からの比高差約90m、南側の城山団地からは比高差約30m。

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

■郷土史
「高崎市史 資料編3中世1」(1996/高崎市)
「群馬県多野郡誌(1927刊行の復刻本)」(1994/春秋社)
「図説群馬の歴史」(1989/河出書房新社)
「史料で読み解く群馬の歴史」(2007/山川出版社)
「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「群馬県の歴史」(1997/山川出版社)・各市町村の公式HP
「多野藤岡地方誌 各説編」(1976/多野藤岡地方史編集委員会)
 ⇒第8章716頁に根古屋城築城に関連し、「永禄11年(甲陽軍鑑では永禄13年という)武田信玄は山名・鷹の巣(寺尾茶臼山城を指す)の間に新城を築き、信州の士望月八郎(佐久郡望月城主・重氏、長篠合戦で討死)・伴野助十郎(佐久伴野庄の人)を入れて守らせた」と「上野志」「関八州古戦録」にあるとしている。また、新たに武田氏支配下となった西上州を窺う後北条氏、越後上杉氏に対し箕輪を拠点とする境目城とし烽火台を置いたとも推定されている。(「群馬県古城塁址の研究」山崎一/著よりの引用)

■史料
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ⇒ 高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収。宝暦年間(1760年頃)に記されたと推定される「上州古城塁記」によれば、「寺尾古城 茶臼の城ともいう、また館ともいう、山の上なり。本城長廿二三間ばかり、四周塁あり、その下は堀切にて、幅十間ばかり、それより段々下にて麓に二の丸の趾あり。」と記した後に、「上野志」より引用した新田義重の居城とした旨の記述がなされている。

「上野資料集成」(1917/煥釆堂本店) ⇒ 上野志上州古城塁記、上毛国風土記、伊勢崎風土記を所収

・2011/01/07 HPアップ
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