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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2017年10月18日のブログ 
所在地
 群馬県太田市下小林町
歴史、人物、伝承

林氏の城跡とも伝わる
 下小林城は太田金山城が所在する金山丘陵から約2kmほど離れた南東部の平野部に所在しており、その別名を大倉城(「日本城郭大系」)ともいい、他に下小林館(「マッピングぐんま」)、茂木の城(「日本城郭全集」)などともいうらしい。なお別名の大倉城はこの城跡が所在している字名に由来するものであり、一方で旧村名(大字)は下小林にあたることからこの名称で呼ばれている。
 かつては環濠に囲繞された複数の区画から構成されていたとされているが、近年は宅地化等が進行し現在その姿を確認できるのは西端の宅地北側と東側並びに西側の一部に限られている。また「山田郡誌」からの引用として、天正11年(1583年)に当時は由良氏に属していたと考えられる林左京が小泉城を本拠地とする富岡氏に備えて差し置かれた城であるとも記されている。(※「太田市史通史編中世」731頁)「太田市史通史編中世」においても指摘があるように計画的な築城によるものというよりも複数の環濠屋敷を組み合わせたような印象も感じられ、濠の規模も大きくはなくあまり防御性が高いという印象は感じられない。
 城跡の鬼門に相当する北東には御厨時代の遺社と考えられる神明宮が所在しており、字名の大倉は字三ツ久田(貢田)と共に神領であった時代の遺称であるという興味深い指摘もある。(※「角川日本地名大辞典」より) 時代は下り「松陰私語第2巻」(「続群書類従第22輯上」)によれば、大倉は大倉四郷としてその当時京都に在京していた吉良氏の旧領であったが、由良氏の祖である横瀬良順(国繁の父、実名貞国)が吉良氏より直銭1000貫で買受けたことが記されている。また、天正19年(1991年)の水帳(検地帳)によれば東上野新田荘下小林村と記されているという。(※「山田郡誌」より) また、「字上に文和2年(※1353年、北朝の年号)の年紀が刻まれた宝篋印塔と、大倉城跡には応永31年(1424年)の年紀が刻まれた五輪塔も存する」(※「角川日本地名大辞典」より)とされているが、訪問後の整理作業で知ったことから残念ながら今回は確認できてはいない。

※注記
 「太田市史通史編」(以下「市史」と略す)に記された当城の残存遺構に関して
 「市史の731頁」において「現在、本丸西面の堀と土居の北半および南面土居、南西郭の土居と堀、東外堀北部と南東端の土居が残っている」との記述がある。しかし現在では、外郭遺構については大分以前に消滅し、本丸に相当する部分は近年の幼稚園グラウンド整備等によりほぼ消滅している。しかし僅かに南西郭(※正しくは西郭とすべき)部分の北側を中心として水濠、土塁、郭跡などが残存し、その東側の水濠はそのまま南端まで水路のような状態で残存し、西側の水堀も途中までは一部残存しているものと考えられる。

確認可能な遺構
 西郭を中心とした水濠、土塁、郭など
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2017年10月18日 14時00分から14時30分
訪城の記録 記念撮影

 気力も記憶容量も低下の一途
 結果的にはこの日の最後の目的地となりましたが、この日に関しては他の史跡めぐりなども行っていたため、漸く16か所目で一部分とはいえ明瞭な水濠と土塁とに対面を果たすことが叶いました。むろん埋立てと宅地化などによりその城跡としての景観は大きく変貌してはいますが、それでも民家の所在する宅地北側を中心にして、その東側と西側の一部にも堀跡遺構が現存していることが窺えました。また現存している堀跡は、特に東側部分についてやや幅が狭いという印象のあることからグランド整備などの際に幾分かは埋め立てられているという可能性も考えられます。
こちらの見学終了の時点で時刻は既に午後2時半を少し回っていました。正午過ぎくらいまでは広がっていた青空が午後過ぎくらいからは次第に曇りがちとなり、下記の「画像A」を撮り終えた直後に太陽はその姿を隠してしまい、この時点ではやや厚い雲に覆われ始め完全な曇天に変わっていました。撮影に際しては基本的にオート機能は使用していませんが、こういう天候になりますとデジカメ画像が暗くなりがちで、内臓されているプログラムの関係でISOなどの補正がかかりすぎたりして、その意に反して今度はやたらに白っぽい画像になってしまいます (^^ゞ
このあと図書館に立寄る予定もありましたが、午前4時過ぎ起床という行動開始も影響したのか、気力の低下が顕著となり疲労感も全身に蔓延してきました。16個所の画像を含めた情報整理などの各種作業を想像して、「ここは引き際」と即断し帰途へとつきました。
( 2017/10/20 )記述
下小林城(大倉城) ⇒ 画像クリックで拡大します
下小林城(別名大倉城とも) −画像A 雲隠れ直前の反射光−
( 2017年9月14日 撮影 )
訪城アルバム
神明宮 ⇒ 画像クリックで拡大
北側の堀跡 ⇒ 画像クリックで拡大
凸1 神明宮
 境内には鳥居手前の石柱に刻まれているとおり神明宮の社が所在していますが、このほか八坂神社の小祠も所在しています。なお、「太田市史通史編」730頁に掲載されている同城の略図には「三笠神社」(※近世から近代に普及した山岳信仰との関連か?)と記載されています。これは二柱の祭神を統合してこのような呼称が行われたものなのかどうかなど、この辺りの経緯については今のところ不明です。
 北側の水濠の個所に進むにはこの神明宮の参道を西へと歩き、境内の南側に広がる幼稚園の運動場との境付近を歩いていくと「画像5」の個所に行きつきます。
凸2 北側堀跡と野鳥
 たまたま訪れた時期が幸いしたのかも知れませんが、やや浅めの水堀でしたがしっかりと水を湛えておりました。画像の右奥の方には体長60cm以上はありそうな大型の白色の野鳥がのんびりと羽を休めておりました。
たぶん白鷺の一種だと思いますが、こちらとしては奥の方の遺構の様子を確認したかったので止む無くゆっくりと前進。すると突然我に返ったように少し慌てた様子で羽を広げ一度木の枝に上がり、その後は勢いをつけて一気に上空へと飛び去っていってしまいました。本来ならばこの水路に沿って滑空して飛び上がる方が安全なのでしょうが、障害物(自分)がいたことにより機転を利かしたようです。

北側の堀跡 ⇒ 画像クリックで拡大
北側の堀跡 ⇒ 画像クリックで拡大
凸3 北側堀跡
 「画像2」の個所から西へ10mほどすすんだ辺りで、この水濠は「ビオトープ」としても活用されているようです。
凸4 北側堀跡の北西隅
 北西隅からは南へと続く堀跡が確認できるのですが、この場所からは宅地内でもあり足元も不安定であることからこれ以上は進めず、現状では果たしてどの辺りまで堀跡が残存しているのかについては確認できませんでした。

北側堀跡北東部 ⇒ 画像クリックで拡大
北西方向から ⇒ 画像クリックで拡大
凸5 北側堀跡北東部
 堀跡遺構自体は主に北側と東側の部分に残されていますが、東側の部分(画像左側)はやや幅が狭くなっており一部埋め立てられているようにも感じます。
凸6 北西方向から
 奥の林になっている個所が城跡遺構が残存しているのですが、郭内は民家の宅地内となっていますのでくれぐれも見学には失礼の無いように一定の配慮が求められます。

国土地理院地図より ⇒ 画像クリックで拡大
大倉薬師 ⇒ 画像クリックで拡大
凸7 国土地理院地図より
 「赤枠」部分がおよその城跡の領域ですが、この画像を含めその後に撮影された数種類の航空写真画像を確認してみましたが、残念ながら何れも様子が鮮明に判別できるものはありませんでした。なお国道122号線はこの時には未整備であり、純農村地帯であったものと思われます。 また「黄色枠」で囲ってある個所は「太田市史通史編」によれば、かつて雷電神社が所在した「字雷(いかづち?)」と呼ばれた地域で、その周辺には「深田」が取り囲み要害地形を形成していたとのことでしたが、因みに現在では「イオンモール」が所在し、その面影は微塵もありませんでした。
凸8 大倉薬師
 城跡の南東には「大倉薬師」の堂宇と共同墓地が所在しています。小さな石仏の薬師様ですが、中世以来の地名である「大倉保」の歴史を想起させる数少ない存在であるようです。
「大倉保」(おおくらのほ)の地名については建久7年(1196年)2月14日の「伊勢大神宮神主注進状」(神宮文庫蔵神宮雑書/群馬県史資料編6巻)に「供祭上分並斎宮寮米済所上野国■(「大」?)倉保処地地頭広綱」と記されているのが初見で、肝心な個所の判読に一部難があるものの、この地の地頭であった佐貫広綱が勅諚に服さず伊勢神宮神主荒木田安実が公訴していたことが分かります。この点について「太田市史通史編中世」では、この環濠で囲繞された城館跡との関わりを示唆していますが果たしてどうなのでしょうか。

国土地理院地図より ⇒ 画像クリックで拡大
大倉薬師 ⇒ 画像クリックで拡大
凸9 東側水濠跡の先端部分
 HP更新に当たり3時間ほどをかけて遺構の残存の現況と「太田市史通史編中世」の記述内容を照合してみましたところ、いくつかの疑問が発生しました。
いろいろと検証した結果、仮に同書に掲載されている略図そのものはあくまでも正しいと仮定しますと、こちらの水路の幅のいくぶん広い個所についても城跡遺構の一部である可能性が考えられましたので画像と説明を追加してみました。
凸10 左 同
 木の茂みの反対側から撮影したもので全く同じ場所を撮影しています。また、これが堀跡であるとすれば画像右側の草地部分も郭跡の一部に相当するという可能性が考えられます。
なお画像右端奥に見える土塁状の地形はその向こう側に所在している駐車場建設に伴う残土のようなもので、国土地理院航空写真およびグーグル航空写真などを比較してみたところでは、2015年頃に発生したものと思われ決して城跡遺構などでは無いようです ^^
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬(「群馬県の中世城館跡1988」)」(2000/東洋書林)⇒略測図が収録されている
「日本城郭大系 4」(1979/新人物往来社)⇒一覧表に「林左京介が在城。堀をめぐらした2城から成る」との記述がある
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)⇒「矢場10騎の筆頭林左京の城であろう」との記述がある

■郷土史・歴史
「図説群馬の歴史」(1989/河出書房新社)
「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「群馬県の歴史」(1997/山川出版社)
「戦国史 上州の150年戦争」(上毛新聞社)
「新田一族の中世」(2015/吉川弘文館)
「新田岩松氏」(2011/戎光祥出版)
「新田一族の戦国史」(2005/あかぎ出版)
「新田一族の盛衰」(2003/あかぎ出版)
「上野岩松氏」(2015/戎光祥出版)
「両毛と上州諸街道」(2002/吉川弘文館)
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)⇒「下小林」と「大倉保」の項目に関連した記述が見られる
「尾島町誌/通史編/上巻」(1993/尾島町)
「太田市史/通史編/中世」(1997/太田市)

■史料
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ⇒所収の「上毛古城塁址一覧」に「金山城の支城、城主林左京。大倉城ともいう。」との記述がある」
「戦国軍記事典―群雄割拠編」(1997/和泉書院)

■データベースほか
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース)
「国土地理院航空写真」⇒掲載されている航空写真について引用しこれを編集加工した

・2017年10月20日 暫定HPアップ
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