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群馬県藤岡市の城館索引へ戻る  落合代官所の遠景 落合代官所 落合代官所南側
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/10/21のブログ  
所在地
 群馬県藤岡市上落合岡360−1
歴史、人物、伝承

代官所と称される屋敷
 「角川地名大辞典10」の上落合村に関する項には、「代官と呼ばれる邸は方70mあり、南面の門と土塁・枡形などが残る」と記されている。また「多野藤岡地方誌」にも「落合代官所」として概ね同様の記述がなされている。
 事実この記述を裏付けるものとして、代官所跡と推定される旧家の南側には枡形跡の名残りと推定される腰高の石垣の一部と大規模な屋敷門が現存している。然しこれらが具体的にどういった性格の「代官所」の存在に伴うものであるのかという点については、やや明確さを欠いているものと思われるのであるが果たしてどうなのであろうか。

確認可能な遺構
 枡形?屋敷門?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年10月21日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/11/13 )
 近世初期の代官所か
 「群馬県文化財システム」の所在地情報によりますと、概ね落合の交差点北西部付近に該当するとのこと。その歴史的な背景等については、勉強不足・ 資料不足のために残念ながら近世の何時頃の時代のどのような性格の代官所であるのかは不詳です。
 然し「上野国郡村誌」によりますと、慶長11年(1606)から元禄11年(1698)の間は幕府領であったとされ、元禄11年以後には旗本である山田・京極・長谷川の3家による相給となったことが記されています。(所謂「元禄の地方直し」と称される蔵米制から知行制への政策転換を背景としたもの)仮にこの記述をそのまま信頼しますと、近世初期における幕府の代官陣屋の一つとも考えられるのかも知れません。
  また現地を訪れた印象と参考資料などの情報を総合しますと、おそらくは現在でも大きな屋敷門を備えている民家を中心とした一帯に相違ないものと思われたのであります。
 なお、零式艦上戦闘機、YS−11等の設計者として著名な故堀越二郎氏はこの上落合村の出身とのことであります。

「落合代官所付近の遠望」 ⇒ 画像クリックで拡大します
落合代官所付近の遠望
( 2008/10/21 撮影 )
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
なし

■郷土史・歴史関係
「藤岡市の歴史年表」(1996/藤岡市)
「角川地名大辞典10群馬県」(1988/角川書店)
「藤岡市史通史編 下巻」(1997/藤岡市)
「多野藤岡地方誌」(1976/同編集委)
■史料
なし

■その他
「群馬県文化財情報システム」(文化財データベース)

・2008/11/13 HPアップ
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