凸代官所と称される屋敷 「角川地名大辞典10」の上落合村に関する項には、「代官と呼ばれる邸は方70mあり、南面の門と土塁・枡形などが残る」と記されている。また「多野藤岡地方誌」にも「落合代官所」として概ね同様の記述がなされている。 事実この記述を裏付けるものとして、代官所跡と推定される旧家の南側には枡形跡の名残りと推定される腰高の石垣の一部と大規模な屋敷門が現存している。然しこれらが具体的にどういった性格の「代官所」の存在に伴うものであるのかという点については、やや明確さを欠いているものと思われるのであるが果たしてどうなのであろうか。
( 2008/11/13 ) 凸 近世初期の代官所か 「群馬県文化財システム」の所在地情報によりますと、概ね落合の交差点北西部付近に該当するとのこと。その歴史的な背景等については、勉強不足・ 資料不足のために残念ながら近世の何時頃の時代のどのような性格の代官所であるのかは不詳です。 然し「上野国郡村誌」によりますと、慶長11年(1606)から元禄11年(1698)の間は幕府領であったとされ、元禄11年以後には旗本である山田・京極・長谷川の3家による相給となったことが記されています。(所謂「元禄の地方直し」と称される蔵米制から知行制への政策転換を背景としたもの)仮にこの記述をそのまま信頼しますと、近世初期における幕府の代官陣屋の一つとも考えられるのかも知れません。 また現地を訪れた印象と参考資料などの情報を総合しますと、おそらくは現在でも大きな屋敷門を備えている民家を中心とした一帯に相違ないものと思われたのであります。 なお、零式艦上戦闘機、YS−11等の設計者として著名な故堀越二郎氏はこの上落合村の出身とのことであります。
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