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素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。   
群馬県太田市の城館索引へ戻る 大舘氏館 大舘氏館のロゴ 大舘氏館
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2017年9月14日のブログ  2017年10月18日のブログ
所在地
 群馬県太田市大舘町(旧尾島町/東楊寺の北約100mの畑地)
歴史、人物、伝承

新田宗本家の分流
 大舘氏は清和源氏の流れを汲む新田政義の次男である家氏が、13世紀後半頃に上野国大舘郷にその居を構え大舘氏と称したことに始まるとされており、その居館がこの大舘氏館であると考えられている。(※下記資料より)
 大舘氏は新田義貞の挙兵に際し当主である宗氏のほかに嫡子孫次郎幸氏、次男弥次郎氏明、三男彦二郎氏兼がこれに加わったとされているが、同族である堀口氏のほか岩松氏、里見氏、江田氏、桃井氏を合わせても百五十騎ほどの兵力であったという。(※「太平記巻ノ十 新田義貞謀反の事付けたり天狗越後勢を催す事」より)
 しかし大舘氏当主の治郎宗氏(むねうじ)は一手の大将であるにもかかわらず、鎌倉極楽坂方面の合戦で守将大仏貞直の家臣本間山城左衛門の郎党と刺し違え討死を遂げてしまう。(「太平記巻ノ十 赤橋相模守自害の事付けたり本間自害の事」)この鎌倉での戦いにおける軍忠状に大舘幸氏、氏明兄弟が一手の大将格として証判の花押を据えている。
大舘氏一族はその後義貞に従い南朝方として活躍したが、氏明(うじあき)は四国伊予国で軍勢を率いて北朝方の守護である岩松頼宥、細川頼春と戦ったが世田城(現東予市)の攻防または「中道合戦」においで戦死したという。(※「新田一族の盛衰」より)氏明の子には義冬氏清がいたとされ、義冬系は足利将軍の奉公衆、評定衆として重責を果たし、氏清系は関岡に改姓し伊勢北畠氏の家臣として続いたともいう。(※「大舘持房行状」、※「関岡家始末」より)
また、「大舘常興日記」「大舘常興書札礼」を記したとされる大舘伊予守尚氏(ひさうじ、法名/常興)は長命で義尚、義稙、義澄、義晴の四代にわたり仕えたともされている。(※「日本史広辞典」)
 
(注記)
 なお大舘郷は大舘村を始めとする4か村から成るとされ、他の3か村は不明ともされてはいる。大舘村が隣接する範囲で推定すれば西側には徳川郷が所在することから恐らくは、出塚、阿久津、武蔵島あたりになるのかも知れない。しかし大舘氏の権益が及ぶとされる範囲が、仮にこの4か村であったとすると畑地がその大半を占めていることから余りに水田部分が少ないように思えてしまう。

確認可能な遺構
 地表遺構消滅/石碑、説明板、館跡標柱あり
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2017年9月14日 8時00分から8時30分、10月18日 午前7時55分から8時05分
訪城の記録 記念撮影

 諏訪神社の小祠と冠木門風の工作物
 道路地図にもしっかりと記載されていることから気になり立ち寄ってみましたが、事前の情報通り一帯は畑地として整備されており、残念がらその地表の様子からは館跡の存在を示すような要素を感じ取ることはできませんでした。
それでも小さな諏訪神社境内には館跡の標柱、説明版、石碑の3点が所在していますので訪れた甲斐はあります。
この日の2か所目であったにもかかわらず、残暑がじわじわと注意力を奪い、祠に参拝するにあたり帽子をとったまでは良かったのですが、コロッと帽子の存在を失念してしました。帽子が無いことに気が付いたのは次の目的地に到着した際でした。そこで暫くおぼろげな記憶を辿ったところ、考えられるのはあそこしかないと即断し、そのまま元来た方向に今度は近道で戻り祠の前に置き忘れた帽子を無事回収しました。集落からは外れた畑の真ん中の小祠ゆえの事情に助けられた思いがしました^^
それでも結果的には新田一族とは関係の深いとされている明応院境内からは、車で5分もかからない目と鼻の先ほどに近いという立地状況も肌で体感できたこともあり、それなりに無駄な往復ではありませんでした。

(メモ1)
 当該更新に伴う整理作業のためにいろいろと調べていったところ、次々と懸案事項が累積しました。
「大舘八幡宮」について
 南方約400mに所在する大舘八幡宮の縁起(※「新田一族の盛衰」(2003/久保田順一著/あかぎ出版)では大舘氏初代とされる家氏が勧請したとしているが、仮にこれが「現地説明板」(東楊寺境内)に記されているように近世の建立(勧請あるいは再興か※この点について「角川日本地名大辞典」では「旗本(黒石藩立藩以前の津軽藩分家)津軽信敏の再建」としている)だとすれば大舘氏との関連性はどうなるのか)とその存在
「近世津軽藩代官陣屋時代の実相」―陣屋支配の領域と代官陣屋の所在地
「その後氏明以降の大舘氏一族の事跡の記録―氏明の子であるとされている義冬(基本資料「大舘持房行状」)と氏清(基本資料「軍記関岡家始末」)ならびにその子孫の事跡とその記述内容に関する信憑性など次々と気にかかる懸案事項がいろいろと累積し始めてしまい収集がつかなくなっています。
( 2017/10/15 記述)

  大舘八幡宮
 先月から通算5度目となるお馴染みとなった旧尾島地区 この1か月間に限ればその滞在時間は25時間を超えてます。こうなりますとさすがにもはや道に迷うようなことは無くなってきたように思えます。 今回訪れました「大舘八幡宮」は、大舘集落の南に所在しており、その近くを流れる早川の流路とその変遷の影響が大きい立地である事が窺えました。新田氏が下向したとされる12世紀中頃には「木橋や渡し」などを介した交通の要衝であった可能性も浮かび上がるような気もします。
堤防の高地から俯瞰してみますと、以前の流路もそのまま耕作地の低地として残存していることが分かります。境内に設置されている解説版によりますと、近世の社殿建立に関しては「津軽氏分家による再興説」を示唆していました。仮にこのことが史実であるとすれば、やはりその勧請に際しては新田氏、なかでもその一族である大舘氏自身が直接関与しているという可能性を想定しても差し支えないものと考えられます。
なお神社境内南西に高さ約3mの塚(築造年代不詳)が所在し、その塚上には近世から明治期にかけて流行った山岳信仰関係の複数の石碑が設置されていました。
※主な情報源「新田一族の盛衰」(2003/あかぎ出版)、「大舘八幡宮の現地解説板」ほか
( 2017/10/20 記述)
大舘氏館 ⇒ 画像クリックで拡大します
大舘氏館城(八幡神社の小祠と標柱ほか) −画像A−
( 2017年9月14日 撮影 )
訪城アルバム
館跡南側付近 ⇒ 画像クリックで拡大
諏訪神社の小祠 ⇒ 画像クリックで拡大
凸1 館跡南側付近城
 館跡として推定されている範囲の南限付近で、かつては堀跡が所在していたともいわれております。しかしこの東西方向にのびる幅1m余りの溝に関しては、「日本城郭大系」などに記されている堀跡位置とはほぼ一致はしていると考えられますが、この景観を観察する限りではたぶん農業用水に関連するものであるように思われます。
 また、この大舘周辺の耕作地には明治初期の「迅速図」にも記されているように畑(養蚕を支えた桑畑)が目立ち、あまり水田を見かけるということが無く、近世以前の記録においても水田耕作は限定されていたことが窺われます。この点について「水田経営と関連が薄い武士の館」という状況が浮かび上がりどうもしっくりとしません。
凸2 諏訪神社の小祠
 大舘氏館跡と推定されているほぼ中心部にこの小祠が所在し、その傍らに「大舘氏館跡の標柱」「説明板」「石碑」などが設置されています。
 この祠脇の道は幅員の狭い農道であるために車のすれ違いは困難です。もしも車を停めるとすれば南の東楊寺前のスペースなどをお借りする方が無難だと思いました。
 なお、大舘氏の勧請したとも伝わる県道298号線の南に所在する早川沿いの「大舘八幡宮」を参拝しなくてはならないということに気が付いたのは、訪問後だいぷ日にちが経過してからのことでありました (^^ゞ

大舘氏館の説明板 ⇒ 画像クリックで拡大
館跡北西隅付近 ⇒ 画像クリックで拡大
凸3 大舘氏館の説明板
 大舘氏初代の宗氏、その子氏明などの事跡のほか、この地が大舘氏の館跡であることを比定する城館関連地名である御堀、御蔵、馬場などの字名が館跡周辺に残されている旨などが記されていました。その設置主体が「市教育委員会」系統の所管ではなく、なぜか「商業観光課」であることに、その当時の予算措置の関係なのかも知れませんが少し違和感を感じてしまいます(^^ゞ
画像クリックで説明板の拡大画像にリンクします。
凸4 館跡北西隅付近
 画像の道路左側が館跡の郭内で比較的新しい民家が所在し、「日本城郭大系」に掲載されている略図の記載をベースにして、「画像8」の航空写真画像などと比較してみたところでは、おおむね矢印の辺りが館跡の北西隅付近に相当するように思われます。

代官足立氏の墓石 ⇒ 画像クリックで拡大
⇒ 画像クリックで津軽藩代官所に関する説明板画像にリンクします
凸5 代官足立氏の墓所
 南の東楊寺の境内墓地には近世津軽藩(家)の代官であった足立氏の墓所もあります。
凸6 主郭
 東楊寺本堂と薬師蔵堂。
画像クリックで津軽藩代官所に関する説明板画像にリンクします

諏訪神社の遠景 ⇒ 画像クリックで拡大
国土地理院航空写真 ⇒ 画像クリックで拡大
凸7 諏訪神社の遠景
 この朱色の冠木門風の鳥居?のような工作物は東側からはとても良く目立ちますが、南側の東楊寺方向からアプローチした場合には、この鮮やかな色合いの冠木門はなかなか目に入らないこともあり、本当にこの場所で間違いがないのだろうかと思ってしまうような穏やかな耕作地の風景が広がっておりました。
 また、仮に「日本城郭大系」掲載の略図(※山崎一氏が昭和40年代前半頃に記したものと思われる)が正しいとしますと、館跡の東側はおおむね画像の緑色をした野菜畑の辺りまでであったものと推定されます。
凸8 国土地理院航空写真
 「日本城郭大系」の記述によれば、館跡は近年耕地整理のため破壊され、堀は狭い水路へと変わり、東西の虎口跡がわずかに認められるばかりである・・・」とされています。しかしこの画像を観察する限りでは、1947年10月に撮影された当時においても、既に館跡としての明確な位置関係を示す痕跡は失われつつあったように思われます。
 南側を東流している早川については河川改修などによりその流路が変更されていますが、県道298号線の位置は航空写真撮影当時と殆ど変化はありません。ただし県道298号線については、「迅速図」など古い公図を参照しますと明治末期以前には大舘集落の手前で一度南に曲がり集落を抜けると北へ戻るという形状であったことが窺われます。

大舘八幡宮社殿 ⇒ 画像クリックで拡大
古塚 ⇒ 画像クリックで拡大
凸9 大舘八幡宮社殿
 朝方の比較的早めの時刻であったことから、参道鳥居前はいささか薄暗く森閑としておりました。
なお「画像10」の古塚は、この社殿の向って左奥に所在していますが、その存在は木々に隠れてあまり目立ちませんでした。
凸10 古塚
 大舘八幡宮境内の南西隅に社叢に隠れるように所在しています。高さ約3mほどの楕円形で、頂部には近世から近代にかけて流行した山岳信仰関係の石碑が設置されておりましたが、「マッピングぐんま」には見当たらないことから境内およびこの古塚も埋蔵文化財包蔵地としては把握されてはいない模様です。

現地解説板 ⇒ 画像クリックで拡大
大舘八幡宮境内全景 ⇒ 画像クリックで拡大
凸11 現地解説板
 この境内に設置されていた「旗本津軽氏による社殿の再興」という解説板の記述が仮に正しいものとしますと、久保田氏が「新田一族の盛衰」で指摘をされているように、この八幡宮は大舘氏の勧請による創建という認識でも良さそうにも思われます。
何れにしましても折を見て基本史料を確認する必要性を痛感いたしました。
凸12 大舘八幡宮境内全景
 南側を流れる早川の堤防から俯瞰した八幡宮の境内で、早川の流路改修以前にはこの画像の左側近辺を複雑に蛇行していた様子などが、戦後間もない時期に撮影された航空写真から読み取ることができます。そうした古い流路は、その後に行われた河川改修により緩やかな弧状に変貌しているのですが、この画像の右側方向(東側)には旧流路であったと推定される低地状地形も確認できました。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬(「群馬県の中世城館跡1988」)」(2000/東洋書林)⇒掲載あり
「日本城郭大系 4」(1979/新人物往来社)⇒掲載あり
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)掲載なし
「群馬の古城 全3巻」(山崎 一 著/2003/あかぎ出版)掲載なし

■郷土史・歴史
「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社)掲載なし
「新田一族の中世」(2015/吉川弘文館)
「上野新田氏」(2011/戎光祥出版)
「新田一族の戦国史」(2005/あかぎ出版)
「新田義重」(2013/戎光祥出版)
「新田義貞」(2005/吉川弘文館)
「新田三兄弟と南朝」(2015/戎光祥出版)
「新田一族の盛衰」(2003/あかぎ出版)⇒掲載あり
「太平記の里 新田・足利を歩く」(2011/吉川弘文館)⇒掲載あり
「太平記」(1990/新潮社)
「両毛と上州諸街道」(2002/吉川弘文館)
「太平記の群像」(1991/角川書店)
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)⇒掲載あり
「新田町誌第4巻/特集編/新田荘と新田氏」(1984/新田町)
「新田町誌第1巻/通史編」(1990/新田町)
「新田町誌第2巻/資料編上(1)」(1987/新田町)
「尾島町誌/通史編/上巻」(1993/尾島町)
「太田市史/通史編/中世」(1997/太田市)
「日本史広辞典」(山川出版社)

■史料
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 「上毛古城塁址一覧」に「消滅、単郭、大館氏の館」などの記述がある。
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収

「関岡家始末記」(「続群書類従20下訂3版」(1985/続群書類従完成会)所収)
 大舘氏の内大舘氏明の次男とされる伊賀国関岡城主とされる伊賀守氏清以降から戦国時代末期頃までの動静に関する記述が見られるが、その信憑性については同時代史料の裏付けも乏しいことから不明な部分も少なくはないように思える。

「戦国軍記事典―群雄割拠編」(1997/和泉書院)

■データベースほか
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース)⇒掲載あり
「国土地理院航空写真」上記航空写真について引用しこれを編集加工した

・2017年10月16日 暫定版HPアップ
・2017年10月20日 大舘八幡宮画像追加、関連説明を追記
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