凸新田義重の築城伝承 「上野志」によと「新田義貞の末弟である義重が、北条時行による中先代の乱(建武2年、1335)の戦功により、丹生城を賜り、以後弾正重兼、民部兼義、左衛門義景、雅楽助義行、主税助行崇、主水正景純らの八代が居城したとされ、景純は北条内匠頭政時の居城である後閑城を攻略し、その後永禄3年(1560)に甲斐武田氏に服属した」と記されている。 また、「上州故城塁記」にも、「新田四郎義重は新田義貞の末弟であり、中先代の乱の際に北条時行と上州で戦ったと「太平記」に記されており、その後足利直義は義重の戦功に報い甘楽郡を与えた。のち代々相続して丹生山に居住し、義重7代の孫である主水景純は後閑城に転居した」旨が記されている。 これらは何れも当初の築城者について新田義重としているが、「日本城郭全集」等の記すように、築城当時は遥かに小規模な居館であったものと考えられる。なお、城跡の北中腹に所在する金乗寺は、城主であった丹生四郎入道金乗が開基とされ、四郎義重と同一人物であることが示唆されている。ただし、以上の点については同時代の文献史料からは必ずしも明確ではないらしい。 なお、これに対して応永32年(1425)に岩松満長が鎌倉公方足利持氏から丹生郷を知行され、地頭代の成次を配したのが新田氏(岩松氏)丹生領の始まりであるとの説もある。 何れにしても岩松氏が後閑城へ移転したのちは小幡氏の属城となり、天正18年(1590)の後北条氏滅亡に伴い廃城となったものと考えられる。
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