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群馬県神流町の城館索引へ戻る 「霧の城」の遠望 霧の城 「霧の城」の堀切
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
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所在地
 群馬県多野郡神流町塩沢(旧万場町)
歴史、人物、伝承

戦国時代末期山中衆の城郭の一つ
 「万場町誌」等の記述によれば、この地域にその存在が確認できる黒田城、千軒山城、小平城とともに、戦国時代末期の山中領における在地領主である黒沢氏、土屋氏に関連する城郭群である旨が紹介されている。なお、これらの記述については「群馬県古城塁址の研究」(山崎 一/著)を引用しているとのこと。
 同誌では標高1028mの並郭構造との記述があるが、実際には標高1042mの山頂に主郭を配置した単郭構造に近いもので、急斜面の南側を除き腰郭が取り巻く形態を残している。なお、「日本城郭全集」では黒沢氏の築城と伝わる旨を記載している。
 別名を「霧ノ城」(万場町誌)、「霧ヶ城」(日本城郭全集)、「桐ノ城」などとも呼称され、また表記の城郭名は「日本城郭大系」による。

確認可能な遺構
 主郭、腰郭、土塁、堀切、小口ほか
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年4月21日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/10/25 )
 山頂は何処に
 この日は事前の予報よりも遥かに天候に恵まれ、これ幸いと御荷鉾スーパー林道のあちらこちらで植物の画像を撮影しながら移動するという正に高原観光ドライブのような軟弱な山城探訪。尤もこの時には「原因不明の貧血に伴う息切れと眩暈+両膝の疾患+ 右足首靭帯の慢性化した疼痛」などを抱えていたので致し方のない状況かとも。さらによせばいいのにわざわざ遠回りをして北側の無名峰から取り付くことにしたため、1時間近くの時間を浪費しつつアプローチ。
 それでもこのあと、城跡の手前で幾分幅の広い尾根筋が括れようやく尾根筋の堀切付近に到達。北東側の腰郭を踏査して山頂到着は14時20分。昼食後南西の腰郭、岩場付近のテラス状地形を恐る恐る確認。天狗沢との名称のごとく、この方面からの登攀困難を実感。注意深く歩いても滑落する可能性が濃厚な岩場が各所に切り立つ天然の要害。林道が無ければ麓の集落からは比高差にして約650m前後。そういう意味では「霧の城」との別名のごとく、まさに「天空の城」の趣さえ。樹木が繁茂していなければ、確かに南側神流川沿いの眺望はある程度確保できる立地。然し北側方面は1200m前後(比高差約200m)の山脈が壁のように東西に伸びている地形のために眺望は限りなくゼロ。
 主郭自体は15m×20mほどの小規模なもの。水の手は現在も豊富で北東の谷筋と推定。単なる物見、狼煙台とするには勿体無く、それでいて余りにも谷沿いの集落からは比高差がありすぎることから、いまひとつ築城目的が分かりにくい山城なのででありました。
 この日、予定では少なくともあと1か所の訪城予定。また山頂から南東方向にのびる見通しのよい尾根筋が非常に気になったものの、100m以上の比高差を戻るべき体力が完全に欠乏していることを自覚して共に自重。とりわけ県別マップル群馬広域・詳細道路地図において標高945mと記された「桐の城山」付近が物見などには最適の立地条件想定されます。なお、この点に関しては所在地・地名の混乱かとも思われるくらいに紛らわしい名称ですがその辺の詳細については不明です。このあと、かなり時間をかけて撮影ポイントを探し、日没間際まで「桐の城」の遠望撮影して本日の任務完了。

「霧の城」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「霧の城」の黄昏
( 2008/04/21 「みかぼ高原荘」付近より撮影 )
後日関係資料と照合したところ、撮影ポイントは事実上この地点しか無いようです。
訪城アルバム
画像クリック等で拡大します
「霧の城」北側の独立峰周辺に所在する気になる地形群 ⇒ 画像クリックで拡大します
「霧の城」への本来のルート ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 無名峰の寄り道-尾根筋の巨岩
 体力が落ちているとはいえ、余り楽をしても意味が無いので敢えて秋葉峠東側の無名峰(「霧の城」北方、標高約1130m)から入山を。
 この小ピーク自体も、北側の平場同平場尾根筋の堀切状地形小口状地形、尾根筋の岩、山頂の平場等に人工的地形改変の要素が感じられ、些か気にかかる存在でした。
 なお、右足首捻挫の後遺症をカバーするためのサポーターのベルトが登る前からあっけなく破損。このため、この小ピークの下り坂では痛みを抑えるべく横歩きの止む無きに。
凸2 楽な復路の確認
 画像正面の尾根筋が寄り道して小ピークで、峠からは既に60mも登ってしまったために、このあとはひたすら比高差100mの下り道となりました。
 途中で楽な復路となるハイキングルートの未舗装林道と合流。いつものようにあちこち気になる地形を辿りながらのため、この時点で既に13時35分に。
 なお、この画像の右手を進めば10分少々で「凸7の登山口」の地点へと到達します。
 ここからは如何にもハイキングコースで途中には道標や神社の鳥居もあります。

北側の尾根筋から俯瞰した「霧の城」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「霧の城」堀切 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 「霧の城」を俯瞰
 標高1042mに所在する山城であるにも拘らず、どちらかといえば登るというよりも下るという印象が強い一本道の尾根筋からの眺めです。
 この地点から緩やかな下り坂の尾根筋を暫く進むと漸く尾根筋が狭まり次第に城跡領域に入っていきますが、よくよく観察していきますと尾根筋の東側には腰郭状の削平地なども確認できます。
凸4 北側堀切?
 北側からアプローチした時に最初に出会う堀切状地形ですが、大分埋まりかけていることもあり腰郭のようにも見えてしまいます。また、実際に直ぐ西側部分にはややほそ長い腰郭状の地形も残存していますので、その判断に苦しむところです。同じ個所を反対側の東方から撮影した堀切?画像および上部から俯瞰した画像です。
 そのすぐ上方には、やや目立ちにくい小さな腰郭状地形(幅約10m、奥行き約2m)も残存しています。

「霧の城」堀切 ⇒ 画像クリックで拡大します
「霧の城」主郭北側部分の腰郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 主郭と直下の堀切
 北側堀切状地形付近から見上げると主郭は比高差約35mを有し、この上方に画像右「凸6」の2段から3段の腰郭群が備えられています。
 また、山頂の主郭最高部の西側には高さ80cmほどの土塁も残存し、その傍には小さな石祠も祀られておりました。
凸6 主郭周辺の腰郭群など
 主郭の周辺には複数の腰郭が配置されています。そのうち南西部の腰郭については凡そ3m×8mの規模、最も大きなものは、この北側から西側にかけての腰郭でおよそ5m×35mの規模を有し、さらにその南西端には高さ2mほどの土塁に阻まれ行き止まり(あるいは小口か)となっています。なおこの下段にも竪堀状?の地形を伴う2m×40m規模の腰郭 が存在しています。
 主郭の南側にはこれといった防御は講じられてはいませんが、元来がこうした滑りやすい岩場を含む急斜面のために不要とされたのかも知れません。

「霧の城」への林道 ⇒ 画像クリックで拡大します
「霧の城」と「桐の城山」の遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 豊富な北東の水場と本来の登山口
 水の手は現在も豊富な北東の谷筋と推定されています。この水場の付近には平場も所在するものの、冬季の在城はその寒さ等から到底く至難の技かと思われます。それでも腰郭の階段状の配置などからは防御にも一定の工夫の跡が見られるように思われました。
 2007年の台風災害により水場の一つと推定される谷筋からは大量の水が流れおちたらしく、中腹の林道共々崩落しておりました。なお、この時点では2007年の台風災害により数ヶ所の崩壊と地割れのため車両は通行不能のままとなっておりました。また御荷鉾スーパー林道自体も災害の爪跡が残り、神流川渓谷と三波川渓谷を結ぶ県道方面も復旧工事中となっておりました。
凸8 「霧の城」と「桐の城山」
 常に疼痛・息切れ等の症状を抱えての踏査であったにも拘わらず、恒例となりました遠望の撮影地点を探索。ところが尾根筋の肩部分に所在するために途中まで車で下ってみたものの麓からではまず不可能なことを確認。さりとて、御荷鉾スーパー林道方面からは直接眺望できるような個所も見当たらず。結局は城跡から見たとおり、東側のゴルフ場の一番上の辺りが最適と推定して逆戻り。
 しかし、時刻は既に夕刻の日没間近。足元にも大きな問題を抱えていたため、殆ど歩かずに「みかぼ高原荘」のテニスコート(標高920m)付近から、逆光で恰も霞んだように見える「霧の城」の撮影に暫しの間没頭しておりました。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)・「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

■郷土史
「北武蔵・西上州の秘史」(川鍋 巌 著/2006/上毛新聞社)
「図説群馬の歴史」(1989/河出書房新社)・「史料で読み解く群馬の歴史」(2007/山川出版社)
「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社)・「群馬県の歴史」(1997/山川出版社)・各市町村の公式HP
「万場町誌」(1994/万場町)、「多野藤岡地方誌 総説編・各説編」(1976/多野藤岡地方史編集委員会)

「群馬県多野郡誌(1927刊行の復刻本)」(1994/春秋社)
 同誌によれば、「大字塩澤にあり、塹壕の跡歴々として今なお存すれども、記録の徴すべきものなく、ただ昔時落武者が逃れて来りて居城としたなりとの口碑が存するのみである」と記されている。この落武者伝承については七村城にも同様のものがありますが、その真偽を確かめる術はありません。こうした伝承は麓の集落から余りに隔絶した立地条件と武田氏・北条氏・上杉氏の攻防等を背景として形成された里伝のひとつと推定されます。

■史料
■「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ⇒ 高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収

・2008/10/26 HPアップ
・2008/10/27 引用資料追加
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