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群馬県太田市の城館索引へ戻る 堀口館 堀口館のロゴ 堀口館
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2017年9月29日のブログ
所在地
 群馬県太田市堀口町
歴史、人物、伝承

新田氏本宗家有力庶子堀口氏の館跡か
 現地解説板によると「上野国志」からの引用として、「堀口村 大舘宗氏の兄堀口次郎貞氏の居処、その孫美濃守貞満、南朝に仕えて数々の戦功あり」として、当村内に貞氏の居館があったことを紹介している。またこの地に堀口貞満が創建したと伝わる正覚寺には「館跡の遺構」が遺されていたとし、堀口地内からは文永12年(1275年)、建治2年(1276年)、元弘3年も(1333年)、建武3年(1336年)記銘の板碑が出土している旨を記している。
同様に傍らの「正覚寺跡」と刻まれた石碑には、「堀口館跡に所在していた堀口山不動院正覚寺(伝、堀口貞満建立)は昭和43年(1968年)4月に起工した早川の堤防拡幅工事に伴い同村内に所在した浄蔵寺と合併し不動堂を建立し境内の墓石も移転した」旨が記されている。
また、現地解説板によれば、堀口村を含むと考えられる「堀口郷は新田義兼が鎌倉幕府から元久2年(1205年)にその地頭職を安堵された新田荘12か郷のひとつであり、岩松時兼に譲られた上堀口郷を除き代々新田宗家に継承され4代後の貞氏がその居を構えて堀口氏の祖となった」としている。(※所領安堵に関しては元久2年8月の将軍実朝下地状案「正木文書4」に記されている)
こうしたことはあくまでも「上野国史」の記述を信頼し、仮に堀口にほかに鎌倉期以降の館跡が確認されないとすれば、堀口館の有力な比定地となることを意味するものであろう。
 なお、同館跡の途絶に関して仮にその主である堀口氏一族の関わりが強いものと考えれば、同氏の転戦により遅くとも1340年頃までには事実上消滅していた可能性もあるのではないのだろうか。

確認可能な遺構
 遺構消滅/標柱、説明板あり
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2017年9月29日 午前6時50分から7時20分
訪城の記録 記念撮影

 堤防の下
 利根川支流の早川堤防上に建設された県道276号線北東側の堤防下、いくぶん夏草に隠れがちではありましたが堀口館跡の標柱と解説版などが所在しておりました。またその北側の賀茂神社沿いの市道沿いには不似合とも思えるような立派な堀口館の案内標識も所在 しております。標柱と説明版の近くには県道276号線と早川を跨ぐ「水道橋」のような構築物が所在しているので、これも分り易い目標物のひとつです。なお、下記の航空写真画像からも分かるように館跡は既に戦後間もない時期にはその一部が堤防にかかっている状態にあり、その後の堤防拡張工事によりその大半が消失していったものと考えられます。
しかし、その案内標識の充実ぶりとは裏腹になりますが、館跡としての地表上の痕跡については同堤防工事等により事実上消滅しているのが残念に思われてなりませんでした。またこの折は現地状況が不明のために北西約1kmばかり離れたコンビニに駐車。 たまたま購入したグレープフルーツ味の塩飴がなかなかいけましたが、そこからはトボトボと徒歩にてアプローチし、結果的には新田氏一族とかかわりの深い浄蔵寺、賀茂神社などにもゆっくりと立ち寄ることができたました。
( 2017/10/22 )記述
堀口館 ⇒ 画像クリックで拡大します
堀口館 −画像A−
( 2017年9月14日 撮影 )
訪城アルバム
浄蔵寺 ⇒ 画像クリックで拡大
県道276号線と水道橋 ⇒ 画像クリックで拡大
凸1 浄蔵寺
 堀口館の北西約500mに所在する浄蔵寺は寺伝によれば新田氏の創建と伝わりますが委細不明。また「駒形山」の山号については、新田義貞が討幕軍を旗揚げしたさいに、利根川の渡河を前にしてその軍勢を休息させたことに因むともされています。なお、新田軍の進撃は一度笠懸野へと向かったとする考え方が有力であることに鑑みますと、向うべき方角が異なるため、当地での休息説には疑問の余地がありそうです。
※山門前に設置されている解説板画像へリンクします
凸2 県道276号線と水道橋
 堀口館の標柱などが所在している「画像A」の地点は、この県道に架かる水道橋の少し先の堤防左下辺り(東側)になります。この歩道を歩いて途中から斜面を下るか、あるいは画像左上(北側)に見える市道からアプローチしても辿りつけます。

堀口館跡現地解説版 ⇒ 画像クリックで拡大
同地の石碑 ⇒ 画像クリックで拡大
凸3 堀口館跡現地解説板
 この解説板によりますと、上野国志からの引用として「堀口村 大舘宗氏の兄堀口次郎貞氏の居処、その孫美濃守貞満、南朝に仕えて数々の戦功あり」として、当村内に貞氏の居館があったことを示している旨が記されています。またこの地に所在していた堀口貞満が創建したと伝わる正覚寺には「館跡の遺構」が遺されていたとも記しています。
凸4 同地の石碑
 館跡そのものの石碑ではありませんが、この「正覚寺跡」と刻まれた石碑には、「寺院建立から寺院の移転」に至るまでの経緯について分かりやすく記されています。この碑文によりますと、堀口館跡に所在していた堀口山不動院正覚寺(伝、堀口貞満建立)は昭和43年(1968年)4月に起工した早川の堤防拡幅工事に伴い同村内に所在した浄蔵寺と合併し不動堂を建立し境内の墓石も移転したということです。

賀茂神社 ⇒ 画像クリックで拡大
国土地理院航空写真 ⇒ 画像クリックで拡大
凸5 賀茂神社
 「同社境内に設置されている解説板」によりますと、「主祭神は別雷命(わけいかづちのみこと)とされ、新田氏初代新田義重が久安年中(1150年頃)に勧請したと伝わつている」とのことです。
(メモ)
賀茂神社は京都の上賀茂神社の系統に含まれるものと考えられ、同市内竜舞にも同名の神社が所在しています。(※「神社辞典」(1997/東京堂書店)) なお、戦国の覇者となった徳川氏(j松平)が、徳川郷を故地と称したこと、あるいは同氏が賀茂姓(氏)であったとされることなどとは直接の関連はなさそうです。
凸6 国土地理院航空写真
 「マッピングぐんま」などの所在地情報などを参照しますと、概ね「赤枠」で囲った辺りが堀口館跡となるようです。すでに戦後間もない時期にその一部が堤防にかかり、その後昭和43年(1968年)の河川堤防改修などによりさらに館跡部分は縮小消滅していった模様です。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬(「群馬県の中世城館跡1988」)」(2000/東洋書林)掲載あり
「日本城郭大系 4」(1979/新人物往来社)「堀口貞氏の館。河川開始夕のためほとんど消滅」とのみ記載
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)記載なし

■郷土史・歴史
「図説群馬の歴史」(1989/河出書房新社)
「史料で読み解く群馬の歴史」(2007/山川出版社)
「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「群馬県の歴史」(1997/山川出版社)
「新田一族の中世」(2015/吉川弘文館)
「上野新田氏」(2011/戎光祥出版)
「新田義重」(2013/戎光祥出版)
「新田義貞」(2005/吉川弘文館)
「新田三兄弟と南朝」(2015/戎光祥出版)
「新田一族の盛衰」(2003/あかぎ出版)庶子を含めた新田一族の事跡に詳しい
※同書175頁において、登場する堀口貞祐について堀口掃部助貞満の子としているが、少なくとも下記の「太平記全5巻(新潮日本古典集成)」には「堀口美濃守貞満の子息掃部助貞祐」と記されている。なお「日本史広辞典」では堀口貞満の死亡時期について、「1338年1月初旬の北畠顕家との合流直後越前で戦死したという」と記している。

(メモ)
堀口氏の一族とその事跡
 堀口氏はその同族である大舘氏が14世紀後半には北朝側に転じ幕府の奉公衆、奉行人などの要職についたのに対して、一貫して新田氏宗本家とその旗幟と行動を共にしたが、南朝方の劣勢のなかやがて歴史の波間に消えていったものと考えられる。以下貞満を中心にした堀口一族の事跡は次のとおりである。(※「太平記」「新田一族の盛衰」などより抜粋)

■「太平記」の記述によれば、堀口氏の名は元弘3年(1333年)5月8日生品明神境内に参集し笠懸野へと向かった新田義貞の討幕軍中大舘氏一族の次に「堀口三郎貞満、舎弟四郎行義(※峰岸氏は「新田義貞」において「一井貞政」に比定)」が現れ、貞満は18日の鎌倉攻めの際には巨福呂坂方面の上将軍として参戦したという。
■その後建武2年11月(1335年)尊氏追討軍中に堀口貞満の名があり、「梅松論」によれば直後の11月25日の矢作川合戦において一族と思われる「堀口大炊助」が足利方高師泰の軍勢を打破ったことが見える。
■建武3年(1336年)1月の三条河原での戦いでは新田方の船田義昌、大舘左近、由良左衛門尉のほか堀口右馬之介が討死を遂げている。
■同年4月には建武政権の武者所が再編され1番に一井貞政、二番に堀口貞義(貞満兄弟の父)が任じられた。
■同年5月湊川での敗北後、尊氏軍の入京により後醍醐天皇は叡山東麓の坂本へ脱出し堀口貞満が新田一族らと共に供奉した。
■同年10月、貞満は後醍醐天皇の尊氏との和平交渉に際し有名な「新田一族の忠誠」に関する諫言を行ったが、果たされることなく義貞ら新田一族とともに越前金ケ崎に向けて転戦した。
■翌年(1337年)11月「鶴岡社務記録」によれば、金ケ崎城の落城により義貞の嫡子新田義顕とともに新田一族十余人が死亡したとされ、「長楽寺系図」では近しい同族である綿打氏義、大炊之助父子(※上記堀口大炊之助との関係は不明)が自害したが貞満の名は無い。
■建武4年(延元元年、1337年)北畠軍の上京に際して、美濃の根尾(ねお)・徳山(とこのやま)より堀口美濃守貞満、千余騎にて馳せ加わる。(前年10月の「木の芽峠越え」のさいに離散したか)
■同年5月和泉堺浦・石津で北畠顕家が戦死するが、「新田綿打」も死亡した。(※堀口家氏の子である綿打為氏の子孫か)
■同年閏7月足羽(※あすわ、足利方斯波高経の本拠)の合戦を前にした新田義貞の河合荘での陣触れにおいて、一族である「一井」の名が見える。
■その後も「太平記」には、越前における畑時能、由良光氏、堀口氏政の活躍が記されているが、同時代史料の裏付けを欠き、さらに文和2年(1353年)6月には堀口貞満の子である掃部助貞祐が500人の無頼の輩を集め、足利義詮の軍を襲い足利方の佐々木秀綱が討死したとも記されている。(※「主上・義詮没落の事、付けたり佐々木秀綱討死の事」より)この記述以降には堀口氏一族の名は見られなくなlり、また「太平記」には堀口貞満の死亡時期は記されてはいない※「太平記」脚注15)

「太平記の里 新田・足利を歩く」(2011/吉川弘文館)
「両毛と上州諸街道」(2002/吉川弘文館)
「太平記の群像」(1991/角川書店)
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「箕輪城と長野氏」(近藤義雄 著/2011/戎光祥出版)
「新田町誌第4巻/特集編/新田荘と新田氏」(1984/新田町)
「新田町誌第1巻/通史編」(1990/新田町)
「新田町誌第2巻/資料編上(1)」(1987/新田町)
「尾島町誌/通史編/上巻」(1993/尾島町)
「太田市史/通史編/中世」(1997/太田市)

■史料
「現代語訳吾妻鏡」(2007-2012/吉川弘文館)
「吾妻鏡事典(2007/東京堂出版)」
「太平記全5巻(新潮日本古典集成)」(1988/新潮社)
「戦国軍記事典―群雄割拠編」(1997/和泉書院)

■データベースほか
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース)
「国土地理院航空写真」」⇒掲載されている航空写真について引用しこれを編集加工した

・2017年10月24日 HPアップ
・2019年 6月27日 画像ズレ補正
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