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2017年9月29日のブログ | |
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群馬県太田市堀口町 |
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遺構消滅/標柱、説明板あり |
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なし |
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2017年9月29日 午前6時50分から7時20分 |
( 2017年9月14日 撮影 ) |
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凸参考・引用資料
(太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの) ■城郭関係資料
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬(「群馬県の中世城館跡1988」)」(2000/東洋書林)掲載あり 「日本城郭大系 4」(1979/新人物往来社)「堀口貞氏の館。河川開始夕のためほとんど消滅」とのみ記載 「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)記載なし ■郷土史・歴史 「図説群馬の歴史」(1989/河出書房新社) 「史料で読み解く群馬の歴史」(2007/山川出版社) 「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社) 「群馬県の歴史」(1997/山川出版社) 「新田一族の中世」(2015/吉川弘文館) 「上野新田氏」(2011/戎光祥出版) 「新田義重」(2013/戎光祥出版) 「新田義貞」(2005/吉川弘文館) 「新田三兄弟と南朝」(2015/戎光祥出版) 「新田一族の盛衰」(2003/あかぎ出版)庶子を含めた新田一族の事跡に詳しい ※同書175頁において、登場する堀口貞祐について堀口掃部助貞満の子としているが、少なくとも下記の「太平記全5巻(新潮日本古典集成)」には「堀口美濃守貞満の子息掃部助貞祐」と記されている。なお「日本史広辞典」では堀口貞満の死亡時期について、「1338年1月初旬の北畠顕家との合流直後越前で戦死したという」と記している。 (メモ) 凸堀口氏の一族とその事跡 堀口氏はその同族である大舘氏が14世紀後半には北朝側に転じ幕府の奉公衆、奉行人などの要職についたのに対して、一貫して新田氏宗本家とその旗幟と行動を共にしたが、南朝方の劣勢のなかやがて歴史の波間に消えていったものと考えられる。以下貞満を中心にした堀口一族の事跡は次のとおりである。(※「太平記」「新田一族の盛衰」などより抜粋) ■「太平記」の記述によれば、堀口氏の名は元弘3年(1333年)5月8日生品明神境内に参集し笠懸野へと向かった新田義貞の討幕軍中大舘氏一族の次に「堀口三郎貞満、舎弟四郎行義(※峰岸氏は「新田義貞」において「一井貞政」に比定)」が現れ、貞満は18日の鎌倉攻めの際には巨福呂坂方面の上将軍として参戦したという。 ■その後建武2年11月(1335年)尊氏追討軍中に堀口貞満の名があり、「梅松論」によれば直後の11月25日の矢作川合戦において一族と思われる「堀口大炊助」が足利方高師泰の軍勢を打破ったことが見える。 ■建武3年(1336年)1月の三条河原での戦いでは新田方の船田義昌、大舘左近、由良左衛門尉のほか堀口右馬之介が討死を遂げている。 ■同年4月には建武政権の武者所が再編され1番に一井貞政、二番に堀口貞義(貞満兄弟の父)が任じられた。 ■同年5月湊川での敗北後、尊氏軍の入京により後醍醐天皇は叡山東麓の坂本へ脱出し堀口貞満が新田一族らと共に供奉した。 ■同年10月、貞満は後醍醐天皇の尊氏との和平交渉に際し有名な「新田一族の忠誠」に関する諫言を行ったが、果たされることなく義貞ら新田一族とともに越前金ケ崎に向けて転戦した。 ■翌年(1337年)11月「鶴岡社務記録」によれば、金ケ崎城の落城により義貞の嫡子新田義顕とともに新田一族十余人が死亡したとされ、「長楽寺系図」では近しい同族である綿打氏義、大炊之助父子(※上記堀口大炊之助との関係は不明)が自害したが貞満の名は無い。 ■建武4年(延元元年、1337年)北畠軍の上京に際して、美濃の根尾(ねお)・徳山(とこのやま)より堀口美濃守貞満、千余騎にて馳せ加わる。(前年10月の「木の芽峠越え」のさいに離散したか) ■同年5月和泉堺浦・石津で北畠顕家が戦死するが、「新田綿打」も死亡した。(※堀口家氏の子である綿打為氏の子孫か) ■同年閏7月足羽(※あすわ、足利方斯波高経の本拠)の合戦を前にした新田義貞の河合荘での陣触れにおいて、一族である「一井」の名が見える。 ■その後も「太平記」には、越前における畑時能、由良光氏、堀口氏政の活躍が記されているが、同時代史料の裏付けを欠き、さらに文和2年(1353年)6月には堀口貞満の子である掃部助貞祐が500人の無頼の輩を集め、足利義詮の軍を襲い足利方の佐々木秀綱が討死したとも記されている。(※「主上・義詮没落の事、付けたり佐々木秀綱討死の事」より)この記述以降には堀口氏一族の名は見られなくなlり、また「太平記」には堀口貞満の死亡時期は記されてはいない※「太平記」脚注15) 「太平記の里 新田・足利を歩く」(2011/吉川弘文館) 「両毛と上州諸街道」(2002/吉川弘文館) 「太平記の群像」(1991/角川書店) 「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店) 「箕輪城と長野氏」(近藤義雄 著/2011/戎光祥出版) 「新田町誌第4巻/特集編/新田荘と新田氏」(1984/新田町) 「新田町誌第1巻/通史編」(1990/新田町) 「新田町誌第2巻/資料編上(1)」(1987/新田町) 「尾島町誌/通史編/上巻」(1993/尾島町) 「太田市史/通史編/中世」(1997/太田市) ■史料 「現代語訳吾妻鏡」(2007-2012/吉川弘文館) 「吾妻鏡事典(2007/東京堂出版)」 「太平記全5巻(新潮日本古典集成)」(1988/新潮社) 「戦国軍記事典―群雄割拠編」(1997/和泉書院) ■データベースほか 「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース) 「国土地理院航空写真」」⇒掲載されている航空写真について引用しこれを編集加工した ・2017年10月24日 HPアップ
・2019年 6月27日 画像ズレ補正 |