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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2011年11月22日のブログ
所在地
 群馬県邑楽郡邑楽町藤川豊原
歴史、人物、伝承

小泉城の支城
 「富岡氏文書」によれば、小泉城主第2代富岡六郎四郎玄蕃頭秀光は、大永年中(1521−1528)に佐野城(唐沢山城)への押さえとして、藤川に砦を構えたのが藤川城の築城の発端であり、東西60間(約108m)、南北93間(約169m)の規模を有し、外側に土塁を伴い、空堀の幅は5間であったという。城にはその一族で重臣の小林河内守義知を配してその防御に当たらしめ、密かに佐野氏側の動静を探っていたものと記されている。
 その後砦は東西に規模を拡大して城郭の体をなし、永禄期には元の砦を本郭とし東側には寺郭、八幡郭が増設されたという。
 なお廃城は天正18年(1590)の後北条氏滅亡時であり、小林氏はそのまま土着して現在に至っているということである。(「中世の邑楽町」「邑楽町誌上巻」より)

確認可能な遺構
 空堀(往時は水堀か)
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2011年11月22日 14時20分から14時25分
訪城の記録 記念撮影

 この日に回遊した中では、最も遺構の存在が期待された城館でした。その形状は方形館の北東部を三角形状に切り落としたような恰好をしています。
 現状では北東部から北側にかけて、幅約5m、深さ1.2mほどの堀跡が明確に残っていますが、ここも屋敷林や周囲の宅地に囲まれて見通しが効きません。そのため西側、南側の詳細な状況は把握しておりません。
 また古文書によれば、その堀幅は5間(約9m)を有するものと記されております。周囲の宅地化等の影響を受けたのかどうかについては定かではありませんが歩測、並びに目測でも3間弱という規模でした。。
 なお北東部には小口状の堀跡の切れ目が所在していますが、鬼門の方角にも当たるため小口は東側に置かれたものと推定されています。

( 2011/12/8 記述 )
藤川城北東部の堀跡
藤川城の堀跡
( 2011年11月22日 撮影 )
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

■郷土史・歴史
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「中世の邑楽町」(1977/細谷 清吉 著/中世の邑楽町刊行会)
「邑楽町誌上巻」(1983/邑楽町)

■史料
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
「邑楽郡誌」(1917/群馬県邑楽郡教育会)
 ※高島村第10節名勝古蹟の項に、「藤川館跡 大字藤川村字豊原にあり。伝え曰く、永禄年中小泉城陥りしとき城主富岡六郎四郎秀光の長男同四郎左衛門秀信この地に逃れ来たり代々農を業とす、同村小林泰中はその裔なりと。いま現に濠の痕跡を存す。」と記されています。しかしこの経緯については、「中世の邑楽町」では「富岡氏文書」などを例に挙げて、明らかな誤伝であることを明記しています。

■その他
邑楽町公式HP

・2011/12/8 HPアップ
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