凸秋妻氏の居館を起源とする城館 地元の秋妻山光林寺に伝わる「秋妻道場之伝記」と秋妻領主讃岐前司山田俊清の位牌などから、新田一揆に帰属していた山田俊清が鎌倉末期に領主として居城し、俊清は徳治2年(1307)に隠居したとされている。 光林寺の南方集落いに存在している遺構はそれぞれ土塁と空堀の一部が現存しているが、あくまでもその規模は小さく、かつその築造年代は必ずしも明確であるとはいえないようである。また、前記の山田俊清との関連についても同様であり不明な部分が多いる。 なお、当該集落内の通路はT字路や鍵の手状のものが多く、外敵からの防御の意思が感じ取られる。 (以上「中世の邑楽町」「邑楽町誌上巻」等を参照)
手元の資料からは複郭の城館であったことが推定されますが、こちらもこの日探訪した他の城館と同様に、集落内の遺構のため宅地化等に伴い残存遺構はごく一部分に限られていました。 明確な遺構は祠が所在する北側に背丈ほどの土塁状の地形を確認できます。 このほかには西側の民家境の幅1.8mほどの宅地の排水機能を兼ねたような堀跡状地形くらいのものでした。 なお 回遊中はこのところの諸事情により一切飲まず食わず仕舞いです。この日の万歩計によれば、歩行距離は約2万9千歩で、およそ20kmほど。今月初めの寺尾城の比定地めぐりでは、早くも1万3千歩付近で足に疲れが出てしまったような始末です。今回については2万歩付近でどっと疲労が発生しまいました。 この日は何といっても、邑楽町のシンボルタワーまでの道程の遠かったこと...平地を歩いていても明らかに歩行速度が低下してきたことが明確となってきました。
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