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1歴史・伝承   2残存遺構   3訪城記録・記念撮影   4アルバム  5交通案内   6参考・引用資料  7更新記録
関連ページへのリンク  2009/5/14のブログ
所在地
 山形県山形市
歴史、人物、伝承

山形城の有力支城
 本城である山形城の有力な支城という性格を有し、歴代城主は2代満氏(7代山形城主)、3代義淳(8代山形城主)というように山形城主を兼ねた場合も少なくなく、経済的戦略的にも極めて枢要な城郭であった。また初代満基は第3代山形城主最上満直の二男であり、中野城主は中野姓を称したという。
 天正2年(1574)6代義時(最上義守の二男)にいたり、兄義光(最上義守の嫡男)との間で家督をめぐり騒乱が発生し(「最上の乱」)、中野義時の居城は灰燼に帰したとの説もある。しかし近年では義時の存在自体を疑問視する説もあり、最上の乱は最上義守、義光親子間の家督をめぐる争いであったとの説も有力視されている。(「山形藩」)
 元和8年(1622)の最上氏改易により中野城は廃城とされた。

確認可能な遺構
 なし(標柱、現地解説板)
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年5月14日 14時45分から15時10分(雨天、強風のため中断)
訪城の記録 記念撮影

 寒さとのたたかい ( 2011/6/9 記述 )
 はるばると埼玉県から山形県まで遠征して、1日あたり僅かに平地の城館6か所という行程ではでは余りに情けな状況であるということは確かでなようです。このあとは山形市内へと向かうルートの途上なので、このため中野城跡へと立寄ることにしました。
 事前の情報収集では、現地には説明版と標柱が所在するとのことでした。しかし、現地に到着してまもなく雨は本降りに然も、風は15m近くまで強くなり傘は殆ど使えない状況に陥りました。それでも雨に濡れながら、どうにかして小学校脇の説明板と3ヶ所の木戸口にそれぞれ設置された標柱を確認・撮影してから撤退しました。
  なお、この日の天気予報は「曇り時々雨で雷」でほぼ100%近く的中していました。その後は早々と山形市内のビジネスホテルへとチェックイン。酷く濡れた服を乾かしているとシングルルームの狭い窓から見える西側の空に青空が出現。やれ幸いと第一日目に日没コールドとなった山形城へと徒歩にて出発。
 尤も南大手口までは僅かに徒歩5分の道程と思ったのが運の尽きで、ここでも運悪く再度雨が降り出して全身ずぶ濡れ状態に。どうやらこの時期の山形地方では天候は北から南へと変わるようです。 なお体は濡れたもののまるで日露戦争の木口小平のようにデジカメだけはしっかりと濡らさず....こうして体が十分に冷えたおかけで、また腹具合の叛乱が再発を...(苦笑)翌日朝の山形市内の最低気温は摂氏5度で、低温注意報、霜注意報が発令されておりました

中野城北御門跡 ⇒ 画像クリックで大郷小学校校庭脇の解説板へ
中野城北御門跡
( 2009/05/14 撮影 )
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)
「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「南出羽の城」(保角 里志 著/2006/高志書院)
「中世出羽の領主と城館」(伊藤 清郎ほか著/2002/高志書院)
「出羽諸城の研究」(沼舘 愛三 著/1980/伊古書院)
「山形県中世城館遺跡調査報告書」(1996/山形県教育委員会)

歴史・郷土史関係
「国史大辞典」(1986/吉川弘文館)
「日本史諸家系図人名辞典」(2003/講談社)
「戦国大名系譜人名事典」(1985/新人物往来社)
「山形県の歴史」(1998/山川出版社)
「角川地名大辞典県6」(1981/角川書店)
「現地解説板」(1989/大郷郷土研究会)」
「山形藩」(2007/横山明男 著/現代書館)

史料、地誌、軍記物
「「奥羽永慶軍記」(2005/無明舎出版)

・2011/6/9 HPアップ
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