凸山形城の有力支城 本城である山形城の有力な支城という性格を有し、歴代城主は2代満氏(7代山形城主)、3代義淳(8代山形城主)というように山形城主を兼ねた場合も少なくなく、経済的戦略的にも極めて枢要な城郭であった。また初代満基は第3代山形城主最上満直の二男であり、中野城主は中野姓を称したという。 天正2年(1574)6代義時(最上義守の二男)にいたり、兄義光(最上義守の嫡男)との間で家督をめぐり騒乱が発生し(「最上の乱」)、中野義時の居城は灰燼に帰したとの説もある。しかし近年では義時の存在自体を疑問視する説もあり、最上の乱は最上義守、義光親子間の家督をめぐる争いであったとの説も有力視されている。(「山形藩」) 元和8年(1622)の最上氏改易により中野城は廃城とされた。
凸 寒さとのたたかい ( 2011/6/9 記述 ) はるばると埼玉県から山形県まで遠征して、1日あたり僅かに平地の城館6か所という行程ではでは余りに情けな状況であるということは確かでなようです。このあとは山形市内へと向かうルートの途上なので、このため中野城跡へと立寄ることにしました。 事前の情報収集では、現地には説明版と標柱が所在するとのことでした。しかし、現地に到着してまもなく雨は本降りに然も、風は15m近くまで強くなり傘は殆ど使えない状況に陥りました。それでも雨に濡れながら、どうにかして小学校脇の説明板と3ヶ所の木戸口にそれぞれ設置された標柱を確認・撮影してから撤退しました。 なお、この日の天気予報は「曇り時々雨で雷」でほぼ100%近く的中していました。その後は早々と山形市内のビジネスホテルへとチェックイン。酷く濡れた服を乾かしているとシングルルームの狭い窓から見える西側の空に青空が出現。やれ幸いと第一日目に日没コールドとなった山形城へと徒歩にて出発。 尤も南大手口までは僅かに徒歩5分の道程と思ったのが運の尽きで、ここでも運悪く再度雨が降り出して全身ずぶ濡れ状態に。どうやらこの時期の山形地方では天候は北から南へと変わるようです。 なお体は濡れたもののまるで日露戦争の木口小平のようにデジカメだけはしっかりと濡らさず....こうして体が十分に冷えたおかけで、また腹具合の叛乱が再発を...(苦笑)翌日朝の山形市内の最低気温は摂氏5度で、低温注意報、霜注意報が発令されておりました
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