凸戦国の城から淀君の産所へ 鳥羽正雄氏や現地の石碑によれば、文明年間の中頃に室町幕府管領の細川政元により築城されたと伝わるというがこのあたりの経緯については余り明確ではないらしい。 記録に現れるのは永正元年(1504)のことである。「細川両家記」などによれば、細川氏被官摂津守護代薬師寺与一(元一)が、細川家の家督相続争いに際して細川高国を擁して政元に抗し「淀之城」に籠城したが敗北したとされている。その後、永禄2年(1559)には細川氏綱が在城し、元亀3年(1572)には三好三人衆の岩成主税頭友道(いわなりもんどのかみともみち)が将軍足利義昭に呼応して兵を挙げたが細川幽斎に敗れた。また天正10年(1582)には勝竜寺城とともに明智光秀の軍が拠ったこともあるという。 その後淀城は小野木重次があずかり、秀吉は天正17年(1589)側室茶々の出産のために羽柴秀長に命じてこれを修築させたが、鶴松は3歳で夭逝し、文禄3年(1594)に至り城の建物は取壊されたとされている。 淀古城の名は近世に築造された淀城と区別するための名称であり、洛南の交通要衝に所在し、別名を納所城(のうそじょう)ともいう。
凸 春のうらら 京都市内から京阪本線を利用しての移動で、最寄りの淀駅まで。たまたま駅のホームが工事中でしたが、現在上り下りのホームが離れているものを統合するためのもののようでした。 城跡と推定されている日蓮宗妙教寺の境内は、洛中の観光地の喧騒とは無縁、小鳥がさえずり蝶が飛び交う閑静な空間です。
秀吉の側室となったかの有名な淀君の産所ともいわれていますが、こじんまりとした鐘楼前には、うららかな春の日差しを浴びた城址碑がひっそりと佇んでおりました。
・いつもガイド の案内図です