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京都府京都市の城館索引へ戻る 淀古城址 淀古城のバナー 淀古城址
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2011年4月13日のブログ
所在地
 京都府京都市伏見区淀納所
歴史、人物、伝承

戦国の城から淀君の産所へ
 鳥羽正雄氏や現地の石碑によれば、文明年間の中頃に室町幕府管領の細川政元により築城されたと伝わるというがこのあたりの経緯については余り明確ではないらしい。
 記録に現れるのは永正元年(1504)のことである。「細川両家記」などによれば、細川氏被官摂津守護代薬師寺与一(元一)が、細川家の家督相続争いに際して細川高国を擁して政元に抗し「淀之城」に籠城したが敗北したとされている。その後、永禄2年(1559)には細川氏綱が在城し、元亀3年(1572)には三好三人衆の岩成主税頭友道(いわなりもんどのかみともみち)が将軍足利義昭に呼応して兵を挙げたが細川幽斎に敗れた。また天正10年(1582)には勝竜寺城とともに明智光秀の軍が拠ったこともあるという。
 その後淀城は小野木重次があずかり、秀吉は天正17年(1589)側室茶々の出産のために羽柴秀長に命じてこれを修築させたが、鶴松は3歳で夭逝し、文禄3年(1594)に至り城の建物は取壊されたとされている。
 淀古城の名は近世に築造された淀城と区別するための名称であり、洛南の交通要衝に所在し、別名を納所城(のうそじょう)ともいう。

確認可能な遺構
 石碑のみ
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2011年4月13日 11時20分から11時30分
訪城の記録 記念撮影

 春のうらら
 京都市内から京阪本線を利用しての移動で、最寄りの淀駅まで。たまたま駅のホームが工事中でしたが、現在上り下りのホームが離れているものを統合するためのもののようでした。
 城跡と推定されている日蓮宗妙教寺の境内は、洛中の観光地の喧騒とは無縁、小鳥がさえずり蝶が飛び交う閑静な空間です。

 秀吉の側室となったかの有名な淀君の産所ともいわれていますが、こじんまりとした鐘楼前には、うららかな春の日差しを浴びた城址碑がひっそりと佇んでおりました。

                   
( 2011/04/21 記述)
淀古城(妙教寺境内) ⇒ 画像クリックで拡大します
淀古城(妙教寺境内)
( 2011年4月13日 撮影 )
訪城アルバム
妙教寺の山門
淀古城の石碑 ⇒ 画像クリックで拡大
凸1 妙教寺山門(画像1−1)
 石碑が所在する日蓮宗妙教寺山門。南東には「城之内」の地名がのこり、ほかに北城堀、南城堀の城郭関連地名ものこっていますが地表上の遺構は確認できません。
凸2 淀古城の石碑(画像2−1)
 鐘楼前に設置されている石碑。鳥羽伏見の古戦場からも近く、慶応4(1868)年1月の戊辰戦争の際に、幕府軍の砲弾が飛来し本堂を貫通したとの記述もあります。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「日本城郭全集」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「日本の名城・古城事典」(1989/TBSブリタニカ)
「近畿の城(探訪ブックス日本の城5)」(1989/小学館)
「新装版日本城郭事典」(鳥羽正雄 著/1995/東京堂出版)
「日本の名城・古城ものしり事典」(1992/主婦と生活社)

■郷土史・歴史
「日本史諸家系図人名辞典」(小和田 哲男 監修 2003/講談社刊)
「日本史広辞典」(1997/山川出版社)

・2011年4月30日 HPアップ
・2019年6月27日 画像ズレ補正
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