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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2014年12月16日のブログ
所在地
 京都府京都市下京区東塩小路町、東塩小路向畑町
歴史、人物、伝承

京都タワーから徒歩約2分
 標高約28.6メートル、比高差0メートルの丘陵端に占地し、旧東塩小路村の東は高倉通、西を東洞院通に挟まれたの現在の京都駅に接した東塩小路北東部の地域に所在し、高瀬川が大きく湾曲した西岸部の平坦地に位置しているが、ほぼ京都駅前というような立地であるために著しい市街地化がすすんでおり当然にして地表状確認されるような遺構は存在していない。
 その城域は東西約140メートル、南北約130メートルほどの範囲として推定され(※「京都府中世城館跡調査報告書第三冊」より引用)、山下氏は下記の論考により若山氏の城跡として推定をされている。天正元年(1573)4月4日には織田信長が足利義昭が籠る二条城を包囲し上京区が兵火にあったが(※「兼見卿記」より)、この東塩小路一帯も兵火により焼失したという。(※出典についてはは未確認)
 この地は平安時代後期以降には平氏や八条院(鳥羽天皇の第三皇女で二条天皇の准母として院号を宣下されて広大な八条院領を領有し、後高倉院の時代には221ヵ荘を数えるまでに至り大覚寺統の経済的基盤を構成することとなった)の邸街となり、後白河法皇が幽閉中の鳥羽殿から隠れ移るほどの屋敷があったとされている。(※「百練抄」「平家物語」)
 その後は戦乱などにより荒廃したが、16世紀の初めにのちに近世の庄屋となる若山氏が入植し、この地の開発耕作をすすめ16世紀中ごろには東塩小路村が形成されていたとされている。(※「若山用助家文書」より)
 当城跡が所在する東塩小路は鴨川右岸にあり、「京都府地誌」によると北は七条から南は八条までの西洞院通以東に集落の中心が所在していた。かつては六条以南であったが17世紀初めに東本願寺が建立されてからは七条以南に限定されることとなった。 なお現在の塩小路通は京都タワー南側の東西方向の通りを指しているが、元は現在でいう一本北側の木津屋橋通(生酢屋橋通)であって、平安京の八条坊門通、三哲通ともいわれたとのことである。
 一方、塩小路という地名については平安京時代の塩小路に由来しているもので、古くから六条河原院に築造された塩竈に海水を運ぶ道であったとの伝承(⇒「明治19年葛野郡町村沿革取調書」)があるというが定かではないとし、都の南部のはずれに位置していたことからその繁栄を受けにくい洛中と洛外の接点に所在していたと推定している。
 また塩小路町としての町名は木津屋橋通沿いに所在する現在の油小路町、鎌屋町、御方紺屋町(みかたこんやちょう)、北不動堂町の近年までの旧称であるとともに、この城跡北側の町名でもあるのでこの点は些か紛らわしいものがある。
 なお、塩小路を含む地名は現在この他に前記の東塩小路町東塩小路釜殿町(⇒現在その町域はすべて京都駅の用地となっている)、東塩小路高倉町(⇒現在一部を除いて京都駅用地となっている)、東塩小路向畑町という4か所の地名も存在している。(以上の記述は、おおむね「角川日本地名辞典 26京都府」を参考とした)
 基本となる城郭関係資料としては、下記のとおり「京都市内およびその近辺の中世城郭」「京都府中世城館跡調査報告書第三冊」があるが、戦国期におけるその様相は不明である。

確認可能な遺構
 なし
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2014年12月15日 午前10時31分から10時40分頃まで
訪城の記録 記念撮影

 生憎の本降り
 京都滞在2日目となったこの日の空模様は、前日の天気予報通り見事なまでの雨降りとなってしまいました。加えて昼頃からは北風も強まるとの予報も出るような始末に。また昨日発症した両足踵の痛みは激痛のまま変わらず仕舞いで、その際踵の負担軽減のために試用した中敷きクッションの効果もけっして芳しくはありませんでした。
 そういえば2011年4月に京都市内を訪れた際にも同様の痛みを発症。その折も原因不明の踵付近の痛みが発症したのですが、その当時は石畳や歩道などの多い場所を歩きとおしたことなどによるものと考えておりました。しかしこの2度目の上洛以降には、これが8割方は足底腱膜炎の可能性があることが分かり、この後約1年間は様々な踵保護サポーターなどを試すような日々が続き現在に至っています。
 後日談はともかくとして、宿泊したホテルの室内から時々窓越しに天候の推移を見守りつつ、訪問関係資料の再整理を行いながら強雨対応の行程へと変更を余儀なくされました。このためホテルを出発したのは、すでに午前10時を大きく回っておりました。雨さえ降らなければ、本来は二条城、聚楽第跡、御土居跡を軸にして京都市内を時計の針の方向に歩き回る予定でしたが、目下の足の塩梅と天候を考慮して前日の複写した資料を考慮に入れながら徒歩による移動距離を大幅に縮小し、この日の最終目的地を府立中央図書館に決定しました。
 本降りの雨のなかなので、何の痕跡もない駅近くのホテル街と化した塩小路通りをそそくさと撮影したのち、河原通りを右折南下し、下記の明治期の近代建築物のところで記念撮影を行い次目標である九条河原城方面へと向かいました。このあとは一時的にやや小雨模様に変わったので、やれやれと人心地。
 ところがその後に東寺に向うあたりから雨はどんどん激しさを増して有名な五重塔が霞んで見えるほどの降雨となり、九条の跨線橋を渡る際にはこれに加えてビニール傘が吹き飛ばされそうな10メートル前後の強風が吹きすさびはじめるに至り全く以て散々な天候となっていったのでありました。

( 2015/11/19  記述 )
塩小路若山城 ⇒ 画像クリックで拡大します
塩小路若山城城
( 2014年12月16日 撮影 )
訪城アルバム
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凸1 西端から(画像1−1)
 推定地の西端付近で、赤信号が見える画像の縦方向の通りが東西方向に走る現在の塩小路通で、白い車が向っている横方向の通りは南北に走る東洞院通になります。
 ホテルを出た途端の本降りの雨にたたられてしまい、カメラのレンズフードの位置がずれている(⇒画像の右上)のを直すのさえ容易ではないような状況でした。
凸2 推定東端付近(画像2−1)
 車が走行しているのが東西方向に走る塩小路通りで、押しボタン信号機右手に南北方向の高倉通りが走っています。
 推定地の東端に相当するものと想定され、豊臣秀吉の時代に構築された「御土居」の東側ライン(⇒おそらく町境界の形状から判断して、現在の東塩小路町向畑町の一部に相当するものと思われます)とも重なっているといわれています。

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凸3 柳原銀行記念資料館(画像3−1)
 京都市下京区下之町6−3河原町通の東側に所在している京都市登録文化財の木造建築物です。
 柳原銀行は明治32年(1899)に柳原町の産業振興を目途として明石民蔵らにより設立され、明治40年(1907)に上棟された明治期の近代建築物で、当初は河原町塩小路交差点の南西角に所在していましたが、国道24号線河原町通の拡幅工事実施に伴い平成9年(1997)京都市崇仁隣保館資料室「柳原銀行記念資料館」として移築復元されたとのことです。( 「京都府の歴史散歩」「オフィシャルサイト「京都観光ナビ」」より)
凸4 桜田儀兵衛顕彰の石碑(画像4−1)
 左記の資料館入口左側には明治期に柳原町長をつとめ民政の安定を図った同氏の顕彰碑の標柱が設置されています。
 柳原の地名は「山城名勝志」によりますと、往古には柳原氏領が所在したことによるともいわれる古い地名とされ、また「東寺百合文書」などから室町期には東寺の所領の一つとなっていたことが知られています。
交通案内

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いつもガイド の案内図です
 いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「京都府中世城館跡調査報告書第3冊」(京都府教育委員会/2014)
「京都市内およびその近辺の中世城郭−復元図と関連資料−」(京都大学人文科学研究所調査報告第35号/山本 正男/1986/京都大学人文科学研究所)
「京の城−洛中・洛外の城館−」(京都市文化財ブックス第20集/2006/京都市文化市民局文化財保護課)
「日本城郭大系11京都・滋賀・福井」(1980/新人物往来社)
「図説中世城郭事典2」(1987/新人物往来社)
「近畿の城郭1」(2014/戎光祥出版)

■郷土史・歴史
「日本史広辞典」(1997/山川出版社)
「角川日本地名辞典 26京都府」(1982/角川書店)
「戦争の日本史 11畿内・近国の戦国合戦」(福島克彦 著/2009/吉川弘文館)
「だれでも読める日本中世史年表」(2007/吉川弘文館)
「戦国武将・合戦辞典」2005/吉川弘文館
「日本史人物辞典」(2000/山川出版社)
「京都の歴史がわかる事典」(五島邦治 編著/2005/日本実業出版社)
「図説 歴史で読み解く京都の地理」(正井泰夫 監修/2003/青春出版社)
「日本史が面白くなる地名の秘密」(八幡和夫 著/2013/洋泉社)
「京都まちかど遺産めぐり」(2014/ナカニシヤ出版)
京都府の歴史散歩・中・下」(2011/山川出版社)
「信長が見た戦国京都」(2010/河内将芳 著/洋泉社)
「京都・観光文化時代MAP」(2006/光村推古書院)
「若山要助日記 上下〜叢書京都の資料」(1997-1998/京都市資料館)
「戦国時代の貴族〜「言継卿記」が描く京都」(2002/今谷明 著/講談社学術文庫) 
 ⇒大永から天正にかけての公家山科言継の日記で、同時代史料をベースにした戦国期城館に関する論考が含まれている。
「日蓮宗と戦国京都」(2013/河内将芳 著/淡交社)
 ⇒戦国期に存在していた法華寺院の実像に関する詳細な論考である。
幕末維新の民衆世界」(1994/佐藤誠朗 著/岩波新書)

■史料
「日本城郭史料集」(1968/大類 伸 編集)  ※諸国廃城考、諸国城主記、主図合結記を所収

■その他
オフィシャルサイト「京都観光ナビ」
「京都市考古資料館」のサイト
「京都府立総合資料館」のサイト
市公式HPなど
★京都市内における現在の町名の詳細については、2015年11月19日現在ではウェブ地図のマピオンがもっとも詳しいと思われます。

更新記録
・2015年11月19日 暫定版HPアップ
・2015年11月22日 参考引用資料補足
・2019年 6月27日 画像ズレ補正
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