京都府内の市町村別城館跡の目次へ
トップ頁へ戻る 京都府内の市町村別城館跡の目次へ 画像掲示板へ 「ほっつきブログ」へリンク 頁の最後へ移動
 素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。 
京都府京都市の城館索引へ戻る 東本願寺 東本願寺のバナー
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
所在地
 京都府京都市烏丸通上る二丁目常葉町
歴史、人物、伝承

真宗大谷派本山
 慶長7年(1602)に徳川家康から寄進を受けた第12代教如上人(きょうにょしょうにん)により、本願寺(本願寺派本願寺、西本願寺)から分立しこの地に建立された。
 本願寺は戦国期には戦国大名にも匹敵する政治力と軍事力を兼ね備えて、一向一揆を指揮し織田信長とは毛利氏、武田氏などと連携しつつ10年間にも及ぶ石山合戦を繰り広げた。
 そののち豊臣秀吉により教如は引退を余儀なくされ、弟である准如上人(じゅんにょしょうにん)が跡を継いだ。しかし本願寺は関ヶ原合戦では西軍側に与同したこともあり、本多正信の進言により東西分立をはかり、結果としてその政治的影響力を弱められ徳川幕府の支配体制へ組み入れられていった。
 天明8年(1788)、文政6年(1823)、安政5年(1858)、元治元年(1864)の4度にわたり大火に罹災し、現存する建造物の大半は明治期に再建されたものが多い。当時の史料によれば、七条本願寺、信門と記録されるという。別名を大谷本願寺ともいい東西約200m、南北約400mの寺域を有している。

確認可能な遺構
 −
文化財指定
 国宝「教行信證」(きょうこうしんしょう、きょうぎょうしんしょう)ほか
訪城年月日
 2011年4月12日
訪城の記録 記念撮影

 所用時間5分
 本能寺跡方面へ急いでいたこともあり、京都駅から烏丸通を北上する際にその東側を通過しただけです。
また2009年の御影同の改修に引き続いて、阿弥陀堂も改修工事準備中となっておりました。

 従いましてあくまでも外観だけしか拝観しておりませんので、詳しいことが分かりません。また画像の水堀が創建当初のものか、あるいは度重なる罹災により火除けとして築造されたものなのか全く分かりません(汗)

( 2011/04/16 記述)
東本願寺の東側堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
東本願寺の東側堀
( 2011年4月12日 撮影 )

交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料


■郷土史・歴史
「日本史広辞典」(1997/山川出版社)
「真宗の風景−北陸一揆から石山合戦へ」(1990/北国新聞社)
「石山本願寺戦争−続念仏の叛乱」(1998/寺内大吉 著/大東出版)
「一向一揆と石山合戦(戦争の日本史14)」(2007/神田千里 著/吉川弘文館)
「織田信長石山本願寺合戦全史」(2003/武田鏡村KKベストセラーズ)

■史料
なし

■その他
各市町村公式HPなど

・2011年4月16日 HPアップ
・2019年6月26日 画像ズレ補正
トップ頁へ 京都府内の市町村別城館跡の目次へ この頁の最上段へ移動